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“わかりやすさ”という病。 〜グレーゾーンが増える未来に〜

こんにちは、岡山史興です。

今年の初め、Facebookにこんな投稿をしていました。

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それからあっという間に時間が経ち、もう年末。

ようやくの公開となるのですが、なんとなくピンと来る方来ない方、ぜひ少しばかりお付き合いいただけたら幸いですーー。


今回のテーマについて考えるようになったのは、あることに対する悲しさからでした。

それは、


二項対立のチキンレース。

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2018年から2019年にかけて、「こうあれ!」「こうあるな!」というメッセージが世の中にたくさん生まれては消えていったような気がしています。

おっさんにさよならしたり、採用をやめさせたり、夢を追いかけさせつづけようとしたり。

あまりにもたくさんの情報が溢れる世の中だから、ちょっとやそっとの工夫では見てもらえない、気にかけてもらえない・・・その行きついた先が「いいものとよくないもの」を区別していくだけのメッセージとその過激化でした。

それは、誰もが持つ「人よりよくありたい」「終わってると思われたくない」という気持ち、そして「排除されたくない」という恐怖感を刺激することで人の支持を得ようとするもの。

より刺激的に耳目を引こうとする二項対立メッセージの氾濫は、発信元の企業が掲げる綺麗なビジョンとはまったく逆の振る舞いなのでは・・・?と思わずにはいられないのです。

なぜなら、


「よりよい社会」はグレーゾーンだらけだから。

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二項対立のメッセージは確かにわかりやすい。

でも、人も社会も、そんなにわかりやすいものでしたっけ?

「健康に気をつけなきゃ」と思いながら「シメのあとにアイスを食べてしまう」くらい、人は誰もが矛盾を抱えた存在です。

世の中はさらに曖昧なもの。日本に住んでいるのは日本人だけではないし、起業なんてしなくても自分らしく仕事を楽しんでいる人はいくらでもいる。

そんなグラデーションに満ちた社会は、「われわれか、そうでないか」なんて単純化されたメッセージでよりよくできるものではないはず。だから、グレーゾーンを否定する二項対立はこの社会自体を否定すること。

こう言うと、「いやいや、社会にはイノベーションが必要なんだ」とか、「痛みを伴わない改革はない」とか、そんな声が聞こえてくることもあります。

もちろん、本気で世の中を変えるために「AかBか」を問うている人やその問いかけに熱狂している人もいることでしょう。

ただ、そのときにふと足を止めてほしいのです。


その「よい」って、誰のためのものだっけ?

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と。

世の中には様々な立場の人がいて、それぞれの「よりよい社会」を求めています。

だからこそ、社会がよりよくなっていくための変化は、ゆっくりと重層的に進んでいく。人ひとりの成長でさえ長い時間がかかるのだから、社会全体の変化にもっと時間がかかるのは当たり前のことです。(つい忘れてしまいがちだけど・・・)

「AかBか」を問われたときに気をつけなくてはいけないのは、「自分はどっちだろう?」と考えるのではなく、「AかBかで語る」ことを前提にしないこと。

強い言葉は必ず誰かの意思、つまり特定の誰かにとっての「よりよい」を実現するための声なのだから。


「言葉」にかかわる仕事が持つ責任。

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もう1つ。今回のテーマについて心を痛めていた理由があります。

それは、これほど二項対立が手段として広がってしまった世の中への責任を、コミュニケーション、マーケティング、PRや広告といった領域の端っこで「プロフェッショナル」を自認するひとりとして自問しなくてはいけないことだと考えているからです。

ものごとを単純化して選択を迫ること自体が、とても複雑・多様であるはずの社会を否定することだとしたとき、「仕事だから」「注目を集める(バズる)から」という理由で二項対立を手段化することは、本当に胸を張れる行いだと言えるのでしょうか。

自分の軸も信念もなく、対立をつくりだす「わかりやすさ」に逃げ込むことは、本当に世の中から必要とされるコミュニケーションをつくっていると言えるのでしょうか。

仮に、グレーゾーンだらけのこの世の中で否定すべきものがあるとすれば、それは「わかりやすさ」という思考停止を生み出す行動なのかもしれません。


「あなた次第」に逃げないで。

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これから、世の中にはますますグレーゾーンが増えていきます。

働きかたも、働く場所も、働く人も、生活も、未来の描き方も。

それは、単純化したメッセージが対立を生んだり、意図しないところで誰かを傷つけてしまう可能性がますます高いものになっていくということ。

もちろん、問題提起としての「わかりやすさ」に一定の価値があることは否定しません。それならば、提起した問題に対してそのあとの解決まできっちり責任を持ったほうが、きっと価値を残すんじゃないかなと思うのです。

「私の役割は入り口をつくること、そのあとはあなた次第」なんて、どこかで聞いたような責任逃れをしていては、いつまで経っても世の中は変わらないのだから。


追伸:昨年末と今年末で明らかに潮目が変わっている、というポジティブな話。


ここ最近特に感じることですが、尖ろう尖ろうとするクリエイティブを求めるのは明らかに「界隈」だけで、一般(特に若い人)の感覚はもっと「わかり合う」こと、「対立を埋めること」に向いているような気がしてなりません。

それは、M-1で「ぺこぱ」さんが見せた笑いのスタイルや、ちょうど完結したばかりのウルトラマン最新シリーズ「ウルトラマンタイガ」なんかにも見られることでした。

だからきっと、社会は思っている以上に希望に満ちた場所だと思うのです。



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岡山史興
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