
よきスポーツ体験は人生の糧となる
不撓不屈ー図書館シリーズno.2ー「教育者編」
【書評】『小学生からのスポーツ教育 ー 成長の「黄金期」に求められる心構えと指導技術』
伊藤 護朗(いとう・ごろう)
1946年秋田市で生まれる。1973 年3月秋田大学教育専攻科修了。秋田経済大学附属高校( 現明桜高校)教諭、秋田経済法科大学( 現ノースアジア大学)助手、専任講師、助教授を経て、1996年4月教授に就任。学生部長・法学部長などを兼任。2013年4月よりノースアジア大学名誉教授。著書・論文・学会発表など研究業績多数。秋田経法大附属高校野球部長・監督
両時代合わせて甲子園3 回出場。秋田経法大野球部監督として、全日本大学野球選手権大会( 神宮)2回出場。秋田県アマチュア野球連盟会長、秋田県野球協会会長を歴任。現在、秋田県野球協会名誉会長、秋田県レクリエーション協会副会長、秋田市スポーツ協会名誉会長など。
〈主な受章〉
2010年3月 秋田県スポーツ功労章
2012 年1月 秋田県野球協会功労賞
2013 年10月 日本レクリエーション協会運動普及振興功労表彰
2019年10月 文部科学大臣「生涯スポーツ功労者」表彰
2021年11月 叙勲「瑞宝小綬章」
スポーツ選手になりたいというのは今も昔も変わらない子供の夢だが、最近は特にプロスポーツ選手になりたいという子供も少なくない。野球の大谷翔平やサッカーの久保建英など、世界で活躍する選手たちの姿を日常的に見られるようになったことで、子供たちの夢もより具体的な目標として認識できるようになっている。
また子供を持つ親たちも、自分の子供を彼らのようにしたいという願望は、昔に比べてもより強くなっているように感じる。親であれば子供の夢を叶えたいと思うのは当然だし、プロスポーツは厳しい世界であったとしても、それに挑戦する子供を応援したいと思うのも当然である。プロスポーツでなくても、オリンピックに採用されている競技であれば、頑張ってオリンピックを目指すという夢も持つことができる。
今やスポーツの世界は、かつてないほどに夢が溢れている。
だからこそ、親は子供の才能を見いだそうと、さまざまなことに挑戦させる。幼い頃に近所のスポーツ団やクラブに通っていたという方も少なくないだろう。
昔はスポーツというのは教育の一環としてあるものだった。スポーツ競技を通じて、肉体と精神の修養をはかり、人間としての礼儀やマナー、社会や集団で生きていくための心構えのようなものを学ぶ場であった。そういう風潮は今ではだいぶ少なくなったが、例えば今でも高校野球にはその雰囲気は残っている。
そうしたスポーツのあり方は、本来の趣旨に則ったものではあるが、日本のスポーツ教育の現場では、しばしば行き過ぎたシゴキや体罰となって顕れたことは本当に残念なことである。厳しい訓練に耐えることで精神力が養われるという考え方は、ひょっとすると軍隊では効果があるのかも知れないが、少なくともスポーツの世界では通用しないということを今では誰もが分かっている。かつての日本のスポーツ界は、それこそ根性論で厳しい練習に耐えて世界へと挑戦していったが、その多くは実績を残すことはできなかった。
しかしスポーツ根性論のような考え方は、今でも根強く残っているようである。高校や大学の部活動で行き過ぎた体罰が問題となる例は、ニュースの中で目にすることも少なくない。こうした問題が起きる背景の一つには、子供の指導に携わる大人が、未だにそうしたスポーツ根性論から抜け切れていないということが大きいのだと思う。もちろん指導者の中には、スポーツ医学や運動科学などを勉強して、その知見を積極的に指導に取り入れている方もたくさんいる。しかしその一方で、自分の経験したことに基づいて、自分の経験したことだけで指導しようとする人もまた、たくさんいるということである。
高校野球を見ていると、勝つためには手段を選ばないというやり方をするチームに出くわすことがある。甲子園で超高校級のバッターが全打席敬遠されているのを見ると、何とも言えない気持ちになる。確かにスポーツとは言え勝負の世界であることは確かだから、ルールの範囲内でそういう選択をすることは決して誤りではないし、多くの人の支援と期待を背負っているほど、勝利への執念が強くなるのも分からないではない。
ただ、もしバッテリーは勝負したいと思っていたのであれば、ベンチの指示で敬遠を選択せざるを得なかったその心情はどのようなものであっただろうかと思う。もちろんバッターは言わずもがなである。それは子供の教育という視点から考えたときに、果たして正しい選択だったのかは定かでない。
こうしたことは、親が子供にスポーツをやらせたいと考えたとき、何よりもまず指導者の質にこだわる必要があるということを私たちに実感させてくれる。自分の子供を預けても信頼できるという指導者でなければ子供も親も不幸になるし、また指導者にしても信頼して子供を預けられるような指導者でなければならない。
そうした指導者を見つけたり、そうした指導者になるのは、決して簡単なことではないのだが、そのためのヒントとなる書籍があるので、ご紹介したいと思う。
これから本稿で述べるのは、『小学生からのスポーツ教育ー成長の「黄金期」に求められる心構えと指導技術』という本の話である。どのような内容であるかは、タイトルをご覧いただければある程度は想像できると思うが、同書のまえがきから著者の言葉を引用してみよう。
小学生時代は、運動能力に深く関わる運動神経が、一生の中で最も発達する時期である。このことから「黄金時代」(ゴールデンエイジ)と呼ばれているが、この時期にいろいろな運動を経験させ、神経回路に刺激を与えなければ、技術(スキル)や感覚(センス)を大きく成長させるチャンスを逃すことにもなりかねない。
(中略)
「鉄は熱いうちに打て」という言葉があるように、この発育期に適宜適切な指導を行い、子どもに前向きに打ち込む「習慣」が身につけば、自ずと逞しく将来性豊かに育つのではないか。
十代の子供というのは、人生の中でも最も多感な時期であり、最も多くのことを吸収できる時期を生きている。スポーツに限らず、音楽や芸術といった世界でも、始めるのが早ければ早いほど良いと言われている。著者は、そういう時期であるからこそ、指導者が正しい見識で正しく子供を導けることが非常に重要であると考えており、同書では正しい指導者になるために必要なものの見方や考え方が、自身の経験や科学的な知見に基づいて詳細に解説されている。
実を言うと、これは読み始めてすぐに気づいたことだが、同書の中で述べられていることは、子供の教育という枠にとどまらず、ひろくビジネスの場でも参考になるものが多い。これは著者が子供にではなく、子供を見守る立場にある周囲の大人たちに向けてメッセージを送っていることと無関係ではないと思う。子供は子供であるというだけで無限の才能と可能性を持っているが、それを生かすも殺すもまわりの大人次第なのだという考え方がその根本にはある。そしてこの考え方は若手の社員教育などの場でも、そのままあてはまる。
そこで本稿では、同書の内容をご紹介しながら、子供のスポーツ指導や指導者とはどうあるべきかという視点と共に、ビジネス的な視点でも述べてみたい。例えば、同書にはこんな記述がある。
ピンチの場面で、内野手の1人が捕球のタイミングが合わずトンネル。すかさず監督から怒声が飛んだ。けなげにも高い声で「はい」という返事。攻守交代となってベンチに戻ると、その選手に再び「何やってんだ!」と厳しい叱責。そのときの「はい」はかわいそうなほど弱々しかった。やがて彼に打順が回ってきた。打席に向かう彼への監督の指示は「エラーしたんだから(ヒットを)打たねばだめだ」であった。
勝負の世界は辛辣(しんらつ)である。厳しくなければ、逞しくはなれない。けれども怠慢プレーと真剣にやってもできなかったプレーとは同じではない。全くもって「よくありそう」な光景である。おそらくこの少年は、次にもしエラーをしたらベンチに帰るのも怖くなるに違いない。たかが野球であるからこそ、真剣にやることで多くの実りがあるわけだが、同時にたかが野球で子供の人格までをも否定することの愚かしさをこの例はよく示している。「自分のエラーでチームに迷惑をかけたから、自分のバットで挽回したい」という思いは、少年の心の裡からポジティブに沸き上がるものでなければ意味がない。
これと同じような場面は、ビジネスの場でも頻繁に起きている。ビジネスの場も非情だから、全力で仕事をやっても必ず結果に結びつくとは限らないし、むしろそうでないことの方が多い。そういうときに、引用した監督のように何度も𠮟責して個人に責めを負わせるかどうかは、人材育成という意味でも重要なポイントとなるだろう。同書では、この事例の終わりに一言メモとして、「怒るのは感情、叱るのは理性」という言葉を記しているが、至言としか言いようがない。
もう一つ、筆者が参考になると感じた例を挙げてみたい。油断大敵という言葉がある。失敗の原因の多くは、注意を怠ることによって起こることから、気持ちを緩めることは大敵という意味だ。大事な場面では、特に心に留めなければならない言葉だが、勝負の大敵として、もう一つ付け加えたいのが〝不満〞である。
(中略)
データをとって検証したことではないが、試合中審判の判定を不服として執拗に抗議を続けるチームは、負けることが多いように感じている。自軍に不利な判定をされると不満を持つのは当然のこと。けれども、その感情にとらわれすぎると、戦う意欲が削がれ選手のパフォーマンスが低下しがちになる。
引用した文章は、「試合では不満大敵」というタイトルの中に収められている。「不満大敵」とはなかなか面白い表現だが、参考になったのは内容の方だ。同書では引用の後に、指導者の不満感情がいかに勝負の場においてチームのパフォーマンスを低下させるかを、自身の経験に基づいて述べている。こういうことは、指導者の理想が高かったり、勝負にこだわったりする場合に起きやすいが、この問題で難しいのは、不満の対象となっているものが、しっかりと怒って正させるべきものなのか、その見極めが難しいということである。
例えば子供が怪我につながりかねない悪ふざけをしているときに、それを叱れないようでは指導者失格だろう。この場合には、例えチームのパフォーマンスに影響があるとしても、しっかりと正さなければならない。しかし子供たちのプレーにやる気が感じられないときに怒るのは、果たして正しいかどうかは状況による。引用の中でも挙げられているが、試合中の審判の誤審に対して怒るかどうかは、チームの性格によってプラスにもマイナスにもなりうる。
この「不満大敵」という言葉は、ビジネスの場でも十分に活用できると思う。もしかしたら、潜在的な不満という点で言えば、ビジネスの場の方がはるかに大きいかもしれない。どの職場でも、上司は部下に何らかの不満を抱いているだろうし、部下もまた上司に不満をいだいているだろうことは容易に想像できる。しかしここでも不満対象を怒るべきかという難しい問題があるから、そうした潜在的な不満はあまり表に出ることはない。
結果として、上司も部下も不満ばかりが蓄積して部署のパフォーマンスの低下につながっていく。では不満を持たないようにすれば良いのかと言えば、それは無関心であるということと同義になっていくだろう。同書では、この問題に対して明確な指針を示してはいない。ある意味では、読者それぞれが、それぞれの環境にあった答えを見いだすように促されている。ただ同書を読み進めていると、書かれている問題や視点は相互に関連していることに気づいてくる。
同書全体を通じて大きな裏テーマとなっているのは、「勝負」と「教育」の問題である。一見すると、両者は矛盾した関係にあるように思える。教育とは子供の才能を伸ばすことであり、才能を伸ばすにはさまざまな経験をさせなければならない。当然そこには、失敗の経験も含まれる。そして教育には焦りは禁物で、インスタント食品のような教育では本物の才能は育たない。一方で勝負には、そうした悠長さを許さない非情な面がある。
しかしそのように考えたとき、本当に勝負に勝ちたければ教育を疎かにしてはならないとも言えることになる。勝負に勝つには優秀な人材が必要であり、優秀な人材を育てるのは教育しかなし得ないからである。結局のところ、両者は補完関係にあるのであり、この問題はその場面においてどちらを優先するかという問題となる。
子供のスポーツ教育の場であれば、やはり多くの場合、勝負よりも教育を優先させるのが正しい姿だろうと個人的には思う。試合に出ている以上、子供たちは「勝ちたい」という思いを持ってその場に臨んでいるはずだから、勝負の行方は子供たちの気持ちに任せ、大人の都合で(たとえ勝利の経験をさせたいという思いがあったとしても)そこに介入する必要はないように思える。
ではビジネスの場ではどうかというと、これはまた少し話が違ってくる。企業というのは利益を追求する集団であるから、基本的に利益を出さないことには始まらない。その意味では勝負(結果)にこだわることも必要である。そのやり方の一つとして、即戦力を中途採用して利益を上げるということも考えられる。
ただその即戦力も勝手に育ったのではなく、どこかの誰かが育てたのであるから、教育という面を無視することは、日本の経済や産業の空洞化というかたちで何れ自分たちに跳ね返ってくる。永続的な企業継続を求めるのであれば、必然的に勝負にもこだわりつつ人を育てるという環境を整えることが必要になってくる。
この問題について答えるのは同書の範疇を越えているし、この問題を専門的に扱う書物も世の中にはたくさんあるから、具体的な答えはそちらに譲るとして、ここで言いたいことは、同書を読んでいるとこれまで述べてきたこともそうだが、示されているヒントによって自然と思考が促されるということだ。
同書では、優秀な指導者に共通する特徴の一つとして、「アイディア(独創性)に富む」ことを挙げているが、これは問題意識を持ち思考しなければ生まれないものであり、同書全体としてそうなるように仕向けられている。「アイディア(独創性)に富む」ということは、ビジネスの場においても重要な要素となり得るから、本稿の筆者がビジネスの場でも同書が役に立つと感じたのも当然のことなのである。
ここまで、子供のスポーツ指導について書かれた同書には、ビジネスの場でも有用なヒントが詰まっていることを述べてきた。最後に、同書の趣旨の一つでもある指導者とはどうあるべきかということについて、内容を引用しながらご紹介しておきたい。
目標を実力より少し高いところに設定することは、個人だけでなく「チーム目標」として掲げる場合も同じである。最終(理想)目標だけを掲げていることが多いが、そこに到達までの現実目標を明確にしなければ、「絵に描いた餅」になってしまいがちだ。日常の練習でチーム全員が、限界と感じる状況からもう一歩踏ん張る、粘るという気概を持たせることがポイントになる。
指導者は、選手の大きな成功(理想目標)のみにとらわれず、小さな成功(成果)であっても素早く見つけ、褒めたり、認めたりすることを心掛けたい。これを繰り返すことによって、選手は徐々に忍耐力や自己信頼感(自信)を高めていくはずである。
最初に述べたように、子供にスポーツをやらせたいと思う親の気持ちはさまざまである。しかしスポーツをやることによって、人生にプラスになるものを得てほしいという願いは、どの親でも共通のものだろうと思う。同書を読んでいて思うのは、良い指導者は勝負と教育のバランスをとることに長けていると共に、チーム全体と子供一人ひとりへの目配りを同時にできる存在だということである。
スポーツをやる以上、子供にとってレギュラーをとることは目標の一つではあるが、スポーツ活動の中で自分の能力と向き合い、チームの中で自分をどのように成長させていくかを考え体験する時間は、レギュラーをとる以上に価値のあることであると思える。
引用した文章のような指導を受けた子供は、例えスポーツ活動の中で望むような結果が得られなかったとしても、その後の長い人生でどのように目標や課題と向き合い、それを乗り越えていけばよいかという一つの指標と自信を得られるのではないか。そしてそのような指導者であれば、子供の成長にとって貴重な時間を、信頼して託すことができるのではないかと思う。
本稿では、『小学生からのスポーツ教育|成長の「黄金期」に求められる心構えと指導技術』という書籍について、筆者の感じるままのことを述べてきた。著者の意図とは異なる捉え方をした面もあるが、それも同書には単なるスポーツ教育を超えた本質的なテーマが含まれていると感じたからである。
結局のところ、スポーツ教育とは人間教育なのだという結論に至るわけだが、同書を読み終えた後は、同じ結論であっても自ずからそこに深みと厚みが増していることを実感する。著者の提示するテーマや意見に対して、ときに納得し、ときに異論を唱えてみたりしながら、気づけばスポーツ教育というものに対して、真摯に理解したいと思っている自分がいる。そしてそれこそが、子供にスポーツをさせるうえで最も大切なことなのだと腑に落ちる。
同書の本当の価値と魅力は、読み終えた後にこそ出てくる。
改めてそう感じる一書である。