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「縄文女子」はみんなの希望だった。

美術館女子と縄文女子

誤解して欲しくないけど、美術館女子と、縄文女子、その意味あいは結構違う気がする。

現在「美術館女子」が炎上中だ。それについて擁護したいわけではない。この企画の問題として言われているのは「〇〇女子」という言葉の持つあまりにも現実のジェンダーバランス意識の欠如と、美術館を単なる「映え」としてのスポットに位置付けられかねない企画だったということだ。アートという広範なテーマや社会へのメッセージが込められているものを扱うのにも関わらずあまりにも軽薄だろうとネットではほとんど擁護する声は見当たらない。可愛いタレントさんを起用しておしゃれな仕上がりにはなっていても、そのノリは原宿のタピオカ屋と大して変わらない。そこには作品へのリスペクトに文脈への理解もなければ解釈も何もない。タピオカ屋が悪いわけじゃやなくて、タピオカ屋だって美術館と同じ目線にされたら困るだろうという話だ。

一方「縄文女子」。数年前までこの言葉はどちらかと言えばスカイフィッシュとかチュパカブラに近いものだった。「縄文女子」はどこかの仕掛けたマーケティングとかじゃ全然なくて。5,6年前に一人の土偶女子が登場したことや、2015年の縄文ZINEの発行、各考古館の努力もあり、本当に少ないながら縄文を楽しむ女性が増えてきたぞと、界隈で流れた噂の一種だった。

そういった言葉が縄文というちょっと入りづらい敷居を低くしてくれたことは確かで、むしろ縄文ファンの女性からの自発的な呼称だったことも少なくないんじゃないだろうか。考古館や博物館でも使われていたけど、むしろ館のおじさん達よりも女性スタッフの方がもっと女性の来館者を増やしたいという思いで「縄文女子」という言葉を使っていたんだと記憶している。
といっても縄文ZINEでは「縄文女子」という言葉は多分一度も使っていないと思います。いくつかの表紙に若い女性を起用していますが、それにはちゃんと文脈があるし、あの子達全然縄文好きじゃない。

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※と書いたら縄文ZINEの企画協力で「縄文女子旅」やっていました!ネーミングにはタッチしていませんが、しっかり縄文女子使ってた!

縄文ZINEを発行した2015年の時点で〇〇女子とかもういい加減使い古されているし安直だなと個人的には思っていたけど、当の「縄文女子」たちも、カテゴライズされる気恥ずかしさと居心地の悪さはあっても、概ねポジティブなものとして受け取っている人の方が多かったように体感的には感じていました。

人間が一人一人悩みが違うように、ジャンルにも各々の課題があるんだと思う。縄文界隈で言えばあまりにも縄文ファンがおじさん、いやおじいさんに偏重しすぎていたのも健全じゃなかった。考古館に行けば若い人に会うことは少なく、そもそもあまり人がいない。シンポジウムなどは結構集まるのだけど、ここにも勉強熱心な大学生が数名いても、ほとんどがオールド縄文ファン。考古館や博物館がそのことにどのくらいの危機感を持っていたかはわからないけど、新しい縄文ファンの獲得は(館の人だけじゃなく、僕らのようなただの縄文ファンにとっても)本当に切実な願いで、だからこそ「縄文女子」はその存在が希薄なのにも関わらずみんなの希望になっていて、その言葉は「ほんとかな〜」とか言いつつも縄文界隈で広まっていったんじゃないだろうか。

2018年の縄文展

2018年上野の東京国立博物館でいわゆる「縄文展」が開催された。近年では最も大きな縄文展と言ってもいいだろう。

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それにしてもこの縄文展開催にあたってその存在の希薄な「縄文女子」を探してテレビや新聞が右往左往していたのは本当に気の毒だった。縄文ZINEにも問い合わせはよく来ていてその度に「縄文女子とは幻想に近い存在です」とお答えしていたのですが、その度に非常に申し訳ない気持ちになってしまった。

そんな中でも縄文ZINEのイベントは比較的女性が多く来てくれるので、縄文展の直近にやったイベントではそんなに大きな会場でもないのにも関わらずテレビカメラが4局も入る異常事態になってしまった。縄文展、ひいては「縄文」というジャンルを盛り上げるために当時は色々と協力しました。

テレビや新聞、様々な媒体の「縄文女子」という言葉をフックにして企画を組み立てるやり方は、やはりその言葉同様に芸がないなぁと思ったけど、それ以上に効果のある方法を思いつかなかったんだろうと思う。それについて思うことがあっても、ここでは何も言いません。

ただ胸を張って言いたいのは、「女性に人気!」などと言わなくても縄文ZINEは「縄文」の面白さをきちんとキャッチアップ出来ているということだ。ちっちゃくてもおっきいぞ!

これらの活動の結果かどうかはわからないけど、縄文展は尻上がりに来場者を上げていき、最終的には大混雑になる程にたくさんの人が来てもらえた。最終週に見にいったところその来場者の内訳はまさに老若男女。僕個人としては胸の内で快哉を叫んだことを覚えてます。間口として「縄文女子」という言葉が一人歩きしていた現状はあったけど、女性だろうが男性だろうが縄文は誰にでも面白いものだと少しは証明された気がした。

「縄文女子」はUMAではない

今回の美術館女子の炎上で「縄文女子」も使いづらくなるのは必至だ。美術館と博物館は位置付けとしてなんとなく隣接しているし、博物館と考古館もなんとなく隣接している。意味合いが違いますよと言ってもみんな納得しないだろう。

しかし、良いデータもある。縄文女子がほとんど確認できなかった数年前に比べて、確実に縄文を楽しむ女性は増えている。もう「縄文女子」はUMAではない。

例えば現在の縄文ZINEのフェースブックページ(フォロワー数約4000)の内訳を見てみると男女比はほぼ半々、一番多い層は35歳から44歳の女性。もともと縄文おじさんファンの多かったこのジャンルでフェースブックの利用者の年齢層が他のSNSに比べて結構高めなのを考えると、全体の年齢層はもう少し下がるだろう。これは傾向としてそれほど悪くない数字だと思う。

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※僕は縄文おじさんです

縄文人間の誕生

美術館女子と、縄文女子、その意味あいは結構違う。だから「縄文女子」という言葉を使っていたことがあったとしても、まったく卑下する必要はない。映えたらいいなと館の入り口に設置した顔ハメパネルも撤去する必要はない。来館者はちゃんとそれを楽しんでいる。それが考古館の主体ではないことは誰にだってわかる。

しかし、もう「縄文女子」は使いづらくなった。「美術館女子」問題と違うといっても、もともとこの言葉に多少なりとも居心地が悪いと思っていた人もいたわけだし、これからは、より、そう思う人も増えるはずだ。

かつて「縄文女子」は希望だった。しかしもう女性縄文ファンをカテゴライズする必要はない。

そう私たちは人間。人間の「縄文ファン」。私たちは縄文人間なのです。

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それでは最後に聞いてください。TATEANASで『君と土偶と海岸で』


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