【短編】角部屋の夫婦
佐藤幸子(ゆきこ)と健司はともに29歳の夫婦。子供はいない。とある介護用品メーカーの営業職として働く健司を、幸子はスーパーのレジ打ちをしながら支えている。
二人はあるマンションの512号室、いわゆる「角部屋」に住んでいた。
二人は婚活パーティで知り合い、共通の趣味であるテニスがきっかけで仲良くなったという。幸子の同級生たちは20代前半で結婚した者も多いらしく、母親はやたらと娘に結婚を強いていたようである。周囲に急かされた結婚であることは否めない。
そんな事情があったとはいえ、二人の関係は良好の部類であったと言える。日曜日になると、近所の総合公園や美術館などで、仲良くデートをする姿は幾度となく目撃されている。人付き合いも特別良くも無いが特別悪くもない。言わば「どこにでもいそうな、しかし幸せそうな夫婦」だった。
「いったい私が何をしたって言うのよ!」
ある木曜日の夜、512号室から聞こえた幸子(と思われる女)の叫び声については、隣の511号室に住む矢延家の面々も証言している。
矢延家の家主である矢延哲郎(41)はカロリーゼロの発泡酒を片手に、テレビでBSのニュース番組を観ていた。しかし、隣家の叫び声を聞くと反射的に不快な気分になり、テレビのボリュームを2つ上げた。
洗い物をしていた専業主婦の矢延果音(35)もその叫び声を聞いていたが、むしろ夫婦喧嘩があるのが当たり前だと考え、洗い物をしながら再びワイヤレスイヤホンで音楽を聴いていた。小学6年生の長男は塾で不在、小学4年生の次男は自分の部屋で、自室を開けたままにしながらアニメのYouTubeを観ていた。
果音は喧嘩が続くようであれば、隣人として仲裁しようとも考えていた。しかし結局、大声はその一言だけだった。
数日後のある夕過ぎ、買い物袋を持った果音が自宅に戻ってくると、一人の警察官が手を後ろに回し、佐藤夫妻の家の入り口に立っていた。果音の家族がここに引っ越してから5年以上が経つが、こういうふうに警察の姿を見たのはもちろん始めてのことだった。
「あの… どうしたんですか?」
おそるおそる果音は警官に訊ねた。警官は果音を見ると、買い物袋を一瞥した。どうやら隣家の人間であることはわかってくれたらしい。
しかし、警官は再び視線を真正面に戻し、静かに答えた。
「すみません、答えられません」
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