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それでも忘れられない君へ。①

 8月5日午後2時14分、美術室。2台の古い扇風機が、音を立てながら首を振っている。
 気温はジャスト30℃。暑いことには違いないが、扇風機さえあればぎりぎり耐えられないわけでもない。

 美術室には白のワイシャツ姿の、2人の高校生部員がいた。3年生になる野口綾はマルスの石像の前で、小さな汗をかきながらせっせとデッサンに勤しむ。女性国会議員のような短髪に眼鏡をかけており、マルスを睨むその眼光はやたらと厳しい。
 そんな綾には目もくれず、2年生の石川加奈子は紙パックジュースのストローをくわえたまま机にあぐらをかき、窓の外を見つめている。前髪に大きなヘアピンをつけ、扇風機のそこそこの生温かい風が、彼女のそこそこサラサラな長髪をそこそこになびかせる。
 外では野球部が紅白に分かれ、白球を追いかけていた。万年予選1回戦負けのチームだったが、今年は相手チームのトラブルなどもあり、あと2回で本戦、つまり甲子園まで行けそうなところまで進出した。準決勝こそ強豪校に5回コールド負けではあったが、そんな経緯もあり、今年の練習はいつになく活気づいている。

 加奈子は今年の4月まで、あそこの一団にマネージャーとして加わっていた。小学6年生までは女子ながら選手として地域の野球チームにいたこともあるので、辞めてなければ今頃はあそこで黒い野球帽をかぶり、トスバッティングの手伝いをしていたかも知れない。しかし、現実の彼女は今、美術室の隅で、彼らの練習風景を見つめている。幽霊にでもなったかのような気分、と言うのは過剰な表現かもしれないが、実際彼女はそれぐらいの疎外感を感じていた。

「ふうっ…」

 加奈子の後ろで、綾が一息ついた。どうやらデッサンが一区切りしたらしい。加奈子は机から降り、綾のスケッチブックを覗き込みに行く。そこまで熱心な芸術好きというわけではないが、綾のデッサンを見るのは決して嫌いではない。

「…相変わらず上手いね」
 加奈子はため息をつくようにして感想を一言だけ告げた。
「だてに美大目指してないわよ」
 そう語る綾はいつだって得意げで強気で、謙遜ということをしない。それだけちょっとシャクではあるが、その自信が最近は実力に追いついているような気もする。
 綾は満足げに、汗をかいたペットボトルのジャスミン茶に口をつけ、コクコクと小さく喉を鳴らす。加奈子はそんな綾を尻目にマルスの石膏像を見つめている。加奈子が入部して既に3ヶ月になるが、彼女は一向に絵筆はおろか、鉛筆さえも握ろうとはしない。

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