日々の泡
今日(たぶん)NYの夢を見た。
高速道路を走るodysseyの窓から、赤オレンジに塗りつぶされた遠くの山を眺めて、アメリカに来てから何回目かの、秋が来たんだなぁって思いながら、
運転してるお父さんの横で眠くなっきた私は高校生にもどっていて、目を開けたり閉じたり。
そうしながら、そうだ、アメリカは本当にきれいなところだった、と思い返すような夢だった。
自我が芽生えきってた15歳で渡米した私は言葉も文化もそんなに早く覚えられなかったので、毎日「分からない」に囲まれて一日一日を過ごしていて、家族も異国の生活に大なり小なりストレスがあって安心できる時間なんてそんなにはなくて、日本で部活や勉強に励む友達を「いいなー」と思ってたはずなのに、
夢の中の私は車から見える紅葉がふるさとのような感じがして、まるで小さい時からずっと見ていたような、心や血肉の一部のように息をしていた。 もう一回あのピンと冷たく張っていく空気を浅めに吸ったり吐いたりしたい。
あのころ、この先何年何十年住んでもアメリカになじむ日なんて来ないだろうと思っていた。
そもそも望んできたわけでもなくその時アメリカにいたのは偶然だったので、日本に帰りさえすれば幸せになれるんじゃないかと思っていた(当たり前にそんなはずはないんだけど、当時はそう思うことで、矢継ぎ早に襲ってくる「わからない」をやり過ごそうとしていた)。
でも今日は、遠くの山とその向こうの終わりがないような空を見ながら、あの場所を、なにか本当に自分がいるべき場所のように思っていた。
目が覚めて東京で日曜日を過ごして気づいたのは、あの紅葉はNYだけの色じゃなくて、私が過ごした色んなところの赤やオレンジ、くすんだ山吹も鮮やかなキイロ。
どれだけの偶然が重なって今自分は東京に住んでるのかなと、小さな選択や大きな決断の積み重ねが連れてきた道の、なんとも中途半端な長さといい加減さを思わずにいられない。
10年前、アメリカがこうなっていて、日本がこうなっているなんて誰にも分からなかったし、私が今ここでこうしていることも、車に本当に乗っていた高校生の私は知るよしもなかった。
10年後、世界がどうなっていて、私はどこにいて、何をしながらどんなこと考えているか、それは「暮らし」と呼べるようなものなのか、何かと「戦い」ながら時間を過ごすのか、かろうじて「息をしてる」のか、幸せなのか不幸せなのか、誰にもわからない。
でもこのわからなさが、人生をその時の気分任せにしてきたことのツケでもあり、面白さなんだなあと
そんなことを考えたのは多分、久しぶりにゆっくり寝たのと、大統領選が近づいてるのと、今日はこちら側も気持ちの良い秋晴れで、銀座の歩行者天国が本当に気持ちが良かったから。
忙しく働いたり、多すぎる情報に感情をかき乱されたりしてるけど、本当は、過ぎていく日々はいつも泡のようだ。
夢の中で、運転席にお父さんがいて、私は助手席にいて、後ろにたぶんお母さんと妹と兄がいたと思う。
「わからない」ばかりだった異国の高速道路で、小さな泡の中のようだったodysseyに、夢の中とはいえ帰ることができて本当にうれしかった。
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