文章で自分を肯定してあげることができれば、大丈夫である、という話。
大人になると「正解」がない。
結婚すべきかしないべきか、転職すべきか留まるべきか、
移住すべきかしないべきか。昇進すべきか、そのオファーを断るべきか。
分岐点の多い30代は特に難しい。
別に子供の頃から、「正解」に捕らわれる生活をしていたわけではない。
むしろ、進学や就職、何かの決断を迫られる度に、「自分のアタマで考えて、自分で決めてきた」と思っていた。
そうすることができる自分であると思っていた。そうありたいと思っていたし、そうできていることを、誇りにすら思っていた。
それなのに、20代後半から33歳になろうとする今にかけて、
私は基本的に迷ってばかりいる。
どうするべきか、どうすることが自分にとって、回りにとって良いことなのか分からず、もう迷っている状態がデフォルトになりつつある。
その中で小さいながらもいくつか、決断はして行動はしてきた。その結果も引き受けた。
当然、どの道を選んでも、良いこともあれば悪いこともある。
楽しい道はあっても、楽な道はないよね。
だけどそんな当たり前のことすら、「決断」なくしては気づくことができなかった。
「あの時こうしていたら。」
正解のない時代、どんな選択をしてもこの思いから完全に逃れることはできないのかもしれない。
あの時何かを間違えたから、今こんなに大変なんじゃないか?
本当ならいま、もっともっと、幸せになっているはずだったのに。
こんな風に思うのは、頑張っていた「あの時」の自分に失礼だ。そう思っても、「もしも」の魔力になかなか逆らえずにいる。
そんな時、私は今の自分の素直な思いを、文章にして残すことにしている。
書きかけでもいい。つたなくていい。短くていい。
誰かに向けたオフィシャルなものでもないので、書き殴りっぽくて全然いい。大事なのは飾らずに書くこと。心に浮かんでくる言葉と文字に素直でいること。
そうすると不思議なことに、テキストにすれば、自分を肯定する言葉が必ずといっていいほど、やってくる。
「あの時はあれが精いっぱいだった」
「嫌なこともあったけど、良いことだってその倍あった」
「まだまだ人生は始まったばかりで、これから良くできる」
まるで自分に向けた手紙のようだと思う。
「もしも、あの時」・・・の呪いに抗うための、かなり有効な手段だと思っている。
こじつけでもいい。理由をつけて。
肯定して、整理して、しっかり頷く。
そうすれば何度でも、ちゃんと歩くことができると思う。
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