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泣いた

芝居ってなんなんだろう
部屋の外に出る、という簡単なことができなくて混乱して、泣いちゃった
頭ではどうしたらいいか判るのに、体が筋肉が反応できなくて、どうしても外に出ることができなかった
原因は、
納得できないことをしたくない自分の頑固さゆえかもしれないし、
単に見られることに対して怖がりすぎたかもしれない。今もよく判らない。
ただ、反応した結果、
体が少しも動けなかったのよ
演じることがなんなのかよく判らない。
自分が演出していても、これ上手くいってるのかなあ、辛くないかなあ、分かってもらえてるかなあ、もっと自由がいいかなあ、とか、
判らないなー、といつも思う
見る人をだますことではないと思う
だましたところで別に悪くないでしょうとも思う
どうせ自分の思い通り100%にはだませないんだから、そのくらいしたっていいでしょうと思う
それは傲慢なのか?
傲慢は悪いことなのか?
悪いことが悪いことなのか?
よく判らない
なにをだれかに言われても、今は全てを真実として信じてしまうようだ
あなたは、
映像のなかにいるだけでいい、いるだけで意味があるから、演じようとしなくていい、
というのは、
カメラのモニター側にいる人の言い分だ。
カメラのレンズ側にいる人は、そうは思えない。
そうは思えないだろう
だってここに、自分の体と、自分の体が持っている気分が、ちゃんと、あるのに
体には、体の状態には、すべて意味があるのに、
他者によって降り注がれた言葉によって、
体の気分の状態を、変質させようというのが、演技だとしたら、
ある状態を自らの、体とともに、目指そうとすることは、決して欺瞞ではないはずだと思う。
もしも、体の気分を置いてけぼりにして、言葉の意味だけで動いてしまったら、そこには、魂をはぎとられた皮膚状の体しか残らなくなってしまう。空っぽになってしまう。いや、空っぽよりももっと空虚な、悲しい生き物になってしまう。
いくら、映像になった時に自然をみとめられるからといって、「ただいるだけ」を求めるなんて、それはむしろ役者の体と魂を蔑ろにしているんじゃないのか?
自分が成る自分以外の人物を愛して、その人について理解できずに理解しようと考えながら動くほうが、何倍も楽しいのに
魂を憑依する恍惚は、映像にうつらないのか?
もしくは、うつっては、いけないのか?
判らないぜ。

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