湿地帯から街まで
三島由紀夫の自伝的小説『仮面の告白』の幕開きは主人公の幼少期からで、わけても古い記憶は出生時の光景と語らせている。産湯に使う盥の縁についた滴や、揺らめく水面の光など描写も詳らかだ。
とはいえ彼の場合はあくまでも小説だから、事の真偽は定かでない。だが志希の方はだいぶ本気だ。いささか事情は異なるけれど。
自分が真に産まれ出たのは湿地だと、彼女は言って譲らない。もちろん実際には違う。出産場所が東京の病院なのは両親が保証しているし、当時の書類もいくらか残っている。しかし当人は頑として頷かず、かえって己の主張を強くする。
「その日は靄だか霧だかが、立っていたんだと思う。水や泥の匂いがずっと強くて。それが草花の香りと一緒に、湿った空気になって纏いつくようだった。あと遠くで鳥が鳴いてた。あれは、たぶんホトトギスだ。動物園で聞いたのと似てるから」
そうして本当の出生地を、志希は絵に描いて見せた。
このうちの一枚が、私の前にある。葦が繁る沼畔の奥――湛えた水の向こう岸に、森木立が聳えた絵だ。水中に伺える梅花藻の花々からして、季節はおそらく初夏だろう。
であるにしては少し陽気が足りなかった。空は薄っすら緑がかってほの暗く、降りしきる光もくすんでいる。
志希が描く湿地帯――自らの出生地には、手放しの明朗さはない。たとえ燦燦と陽が降り注ごうと、樹々や葦草が奔蒼と燃えようと、花々が絢爛に咲き誇ろうとどこか翳りがある。それが色調や筆運びの問題ではないのは、今までに制作物を鑑みれば明らかだ。なにせ幼少期のクレヨンの落書きでさえ陰鬱な趣を帯びているのだ。
そういった絵を志希は、物心がつかないころから描き続けてきた。己の記憶は揺るぎない真実だと証明するために。その志は彼女が子どもから大人になり、使う道具が紙とクレヨンから、キャンバスと水彩絵の具になっても変わらない。
しかし新たにつけくわえられたものはある。
続く