芥川龍之介 自殺前の作品・河童🥒
芥川龍之介の晩年の作品に『河童』と言う小説がある。その小説の中で主人公は、河童と出会い、河童の世界を垣間見る。河童だらけの摩訶不思議な世界。人間世界をひっくり返して比喩で表したような世界。河童の世界ではまず生まれてくる前に生まれてきたいかどうかを問われ、生まれてきたくないなら生まれなくてもよいとする。恋愛では、雌が追いかける側で、悪遺伝の撲滅なんかも盛んである。(これは芥川の母が精神病者であったこと、そして芥川もいつか自分もそうなるのではないかと恐れを抱いていたことにも起因するのかもしれない) かっぱは人間が真面目に話すことを面白がり、人間が面白がることを真面目に話すというあべこべ具合。(う〜ん、風刺が効いてて、ユーモラスでいいですね)
超人のことを、直訳すると:超カッパです。といってるところも、なんだかおかしい。超カッパ.....なんておかしな響きだろうか。マヌケくさい。でもこれがおかしいのなら、“超人”などという言葉もおかしなものなんだな、とハッとする。
超人といえば、ニーチェの『ツァラツゥストラ』。ニーチェの生命力溢れる文章は触発されるかもしれない。日本には輪廻転生という思想があるけれどニーチェの場合は永遠回帰だ。そんな考え方もあるのかと...けれど結局、ニーチェも気狂いになって死んでしまった。お次はトルストイ。トルストイもだめ、そして国木田独歩、聖徒ワグネル。まるで、血眼になって、救いを求めているかのようだ。聖書のなか、哲学者、他の作家....誰でもいい、ナポレオン、釈迦、孔子、ドストエフスキー、ダーウィン、クレオパトラ、デモステネス、ダンテ、千利休....キリスト教、仏教、モハメット教...やはり宗教しかないものなのか。どこに救いがあるのか、どこかに救いはないものかと。人間以外の何か、大きな縋れるもの。彼がヴィクトール・フランクルの『夜の霧』を読めなかったのが惜しい。夜の霧には、大きなヒントがある。
芥川は統合失調症だったとか鬱、精神病者、などと色々言われているけれど、作品読んでればとても真っ直ぐであるというのがわかる。真っ直ぐだからかえって歪められてしまう。すると病気になる。世界とのズレ、社会とのズレ、周囲とのズレ。おかしいことを捉える力が鋭いからこそその鋭さが諸刃の剣のように自分にも刺さる。...ように見える。
精神病になった際に、治療に有効とされるのが、認知行動療法である。この効果は科学的にも実証されている例が多い。言い換えると、認知を正すことが、精神病を直す、のであれば、精神病は、認知を歪められることでも起きると言えるではないのか。その認知を歪めるというのは、何だろう。それこそが、周囲とのズレ、社会とのズレ、世界とのズレであるのではないだろうか。もちろんこれは一部にすぎず、それ以外にももっと複雑であるとは思うけれど。
税金の本を読んでて、見つけたページ。精神疾患かどうかを科学的に判断する方法はまだない。
とな。歴史を調べてみると、精神患者だから精神科に入院するのではなく、精神病院に入院するから精神患者になる。ね.....
というのを頭の片隅に置いておいてもいいかも。
芥川龍之介 河童
– 以下はメモ📝
愛別離苦(愛する人と別れる苦しみ)、怨憎会苦(恨み憎む人と会う苦しみ)、求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)五陰盛苦(存在を構成する物質的・精神的五つの要素に執着する苦しみ)で、人間として味わう精神的な苦しみであるが、これらをさらに加えると、四苦八苦となる。
フロイトの精神力動論に従えば精神構造の低層部に無意識層がある。人間行動は生の本能と死の本能によって生起するが、それは快感原則と現実原則に支配されている。快感原則について、例えば睡眠、性的欲動、自己保存欲動などである。人間の欲望は何時も思うがままに満たされるとは限らない、そこには外界に存在する現実原則が働く。自我を脅かす願望や衝動は超自我により意識層から締め出されて無意識下に押し込められ抑圧されれてしまう。それは意識されないままに保持されつづける。そのためさまざまな自我防衛機制を執られることになる。
J.ラカンは、表象の位置そのものが個人をその主体性の虜であると想像することを可能にするとして、現実界、象徴界、想像界における表象の役割について論じている。フロイトは、夢は架空の出来事ではなく、夢は現実の投影であり、現実は夢の投影であると主張する。抑圧された衝動や欲動は日常生活においていろいろな形をとって現れる。夜見る夢、言い間違い、書き違い、度忘れ、さまざまな失策行為などである。
快感原則の奴隷となった者は、現実原則であるモラルや良識に背き、公序良俗に違反した社会的ルールから逸脱した行動に走った結果として、社会的孤立が起きる。ナルシシスト、エゴイストは、孤独のうちに自らに罰を与える必要に迫られるゆえに、彼が人間として善良であればあるほど、行方も知れぬわが身を憐れむ悲哀が脳裏をかすめるであろう。自己嫌悪、自己否定の感情が付きまとう。そうでなければ、素知らぬ顔をしてふてぶてしく開き直り居座るだけである。(あのジョーカー事件みたいに?)
自己の不行跡に対する自己審判は懺悔、自己懲罰のルートを歩ませる。万葉の昔から男女の愛の営為は百人百態で、盲目的に迷い道を行くような
ものであり、なおかつ不条理なものである。いかなる理屈付けも合理化も役立たない。それはモラルや道理の対極にあるからである。エゴイズムが支配的になり、次第に愛する家族からも遠ざかり、パンドラの箱を開けてしまったような虚偽,虚飾、自己顕示、欺瞞、隠蔽、偽善、毒舌、嫉妬、厚顔無恥などなどあらゆる人間悪が噴出してくるのである。最早弁解の余地はない。どのような口舌も役立たなくなる。ただ宗教的解決以外に道はない
のである。
J.ボウルビィによると生後 6 ヵ月以内に隔離、母子分離が起きるとその子は育ちにくい。消耗症(Marasumus)にかかり死亡するか、ひどく成長が遅れてしまうと述べている。代理の母の愛情が義務的、機械的になされると子は育たないか、情動障害に陥り、無感動になり表情を失ってしまうことさえあると云われている。
性愛は一時的に愛情飢餓を満たすが、依然として乾きはつづく。胎内回帰ということばがあるが、芥川には回帰すべき母胎のイメージはすでに失われていたと思われる。
芥川は彼の得た知識と自己の実際の経験とを素材にし、虚実織り交ぜて一体なものに統合して、ある心理的生活空間を巧みにつくりだしていくこ
とに専念していたのである。
彼のメランコリーはますます増悪し、唯ぼんやりした不安は或対象性をともなう恐怖となって顕在化したのである。それは精神病院への恐怖である。かれの人生最大の危険は「気違いになること」というコンセプトであった。神経衰弱の悪化で入院の必要を感じはじめた時から、彼は自死を決意したとみられる。
「- 僕はナポレオンを見つめたまま、僕自身の作品を考え出した。するとまず記憶に浮かんだのは「侏儒の言葉」の中のアフォリズムだった。(殊に「人生はj語句よりも地獄的である」と云う言葉だった)それから「地獄変」の主人
公、---良秀と云う画師の運命だった。それから・・・・・
僕は巻煙草をふかしながら、こう云う記憶から逃れる為にこのカッフェの中を眺めまわした。僕のここへ避難したのは五分もたたない前のことだった。しかしこのカッフェは短時間の間にすっかり容子を改めていた。就中僕を不快にしたのはマホガニイまがいの椅子やテエブルの少しもあたりの薔薇色の壁と調和を保っていないことだった。僕はもう一度人目に見えない苦しみの中に落ちこむのを恐れ、銀貨一枚を投げ出すが早いか、怱々にこのカッフェを出ようとした。」
鏡に映った僕の姿は鏡映像であり、写真と一緒であるが、鏡映像は動画的である。客観的に観察される同期する映像であり、何を思うかは他者に
は認識できないが、自身には可能である。が、鏡映像は何時も他者が見かける僕そのものなのである。自己視的鏡映像は客観化された自己(Self)
であり、それを見ている私自身は主体的自我(Ego)であると北村晴朗は主張している。主観的認識と客観的認識の相違があらわれる。自己愛とは客体的自己に愛着を抱くことであり、ギリシャ神話のナルシサスの寓話がそうである。黄水仙の花言葉はうぬぼれ、自己愛である。多くの人の場合、自己の姿を容認し愛着を感じる反面、顔・容姿、体型に不満足感か嫌悪感を抱くこともある。それは自己否定や自己嫌悪につながる。それゆえ古来人間は外観の美の追求に余念がなかった。
さいごに
芥川龍之介とは関係ないけど、かっぱ繋がりで...
雨の日に読みたいかっぱの絵本。
あらすじ☔️
その日は朝から雨。お母さんは急ぎの用ができてしまい、出かけるしたくをしています。そこへピンポーンとベルが鳴り、なおちゃんが玄関をあけてみると、「どうも、かっぱです」と、緑色のおかしな生き物が立っているではありませんか! お母さんは「かっぱさんとお留守番しててね。きっとすごーく楽しいから」といって出かけてしまいます。こわくてテーブルの下に隠れたなおちゃんに、かっぱが声をかけました。「なおちゃん、今日はピクニックびよりですよ。」「雨なのに?」「雨だから。」
雨音に耳をすましたり、雨がいっぱい降らないと辿りつけない秘密の場所で遊んだり、雨に洗われた景色を見ながらおやつを食べたり……かっぱが案内する雨の日のピクニックは、すてきなことがいっぱい! 最後には「雨の日にみんなで雨やどり。これ、最高のぜいたくです」というかっぱの言葉が、しっとりと味わい深く心に残ります。
すみずみまで精密で、かつスケール感のあるファンタジックな絵が目にも楽しい、作者渾身のデビュー作です。
おすすめ🤍☔️🥒