プラハの十字架
プラハの旧市街広場を中心とする歴史的市街地域には生活のにおいがほとんどありません。あたりには人があふれています。ふつうに歩くのが困難なほどの混雑です。
しかしその人の群れは、ほぼ100%が観光客なのです。
それは数値にも表れています。プラハの人口は130万人余り。そのうち旧市街広場を中心とする歴史的市街地にはたった8000人の市民しか住んでいません。
それがいかに不思議な数値であるかは、たとえばイタリアのベニスを例にとってみても明白です。
ベニスの人口は25万人です。そのうち歴史的市街地の住民は5万人。人口130万人のうち
の8000人だけが中心部に住むというプラハの状況は、極めて珍しいのです。
ヨーロッパの旧市街には、どこに行っても人が群れています。群れている人のほとんどは観光客ですが、そこに住まう多くの地元民も観光客に混じって行き交ってます。
なぜそれはが分かるかと言いますと、地元民は普段着を身にまとって、買い物籠やレジ袋を抱えながら歩いていたり、日常の空気感をにじませた表情でゆらりと歩いていたりします。
そんな街の広場や通りのたたずまいを観察すると、地元民が買い物をする店やコンビニや雑貨店などが目に入ります。特に食料品店が肝心です。中でも肉屋の店先には生活のにおいが濃く立ちこめます。
プラハの心臓部の旧市街には、「日常」を身にまとった人々や店屋などが全くと言っていいほど存在しません。
立ち並ぶ建物の一つひとつを観察すると、一階にはレストランやカフェやバー、また土産物店やホテルなどの商業施設がびっしりと軒を並べています。
だがそれらの建物の2階以上には極端に人の気配が少なく、明らかに空き部屋らしいたたずまいもちらほら見えます。
なぜ人が溢れている旧市街広場の周りの建物に住人がいないのか。敢えて例えて言えば、ゴーストタウンのようになったのか、というと次のようなことが考えられます。
旧市街広場一帯はプラハで最もステータスの高い一等地です。かつてそこに居を構えたのは王侯貴族であり、彼らの周囲に群がる軍人や高級官僚や大商人などのエリートでした。
プラハが首都のチェコスロバキアは1948年、共産党の一党独裁制下に入りました。国名もソ連型社会主義国を示すチェコスロバキア社会主義共和国となりました。
権力を得た共産主義者は、旧市街広場を中心とする高級住宅地を掌握すると、特権階級の住民を追い出し家屋を差し押さえて思いのままに運用しました。
だが1989年、状況が一変します。ビロード革命が起こって共産党政権が崩壊したのです。旧市街一帯を支配していた共産主義者は一斉に姿を消しました。
独裁者が去って、民主主義国になったチェコの首都は開かれた場所となりました。しかし、共産主義者によって追放された旧市街広場周辺の住民はほとんど帰還しませんでした。
そこに富裕な外国人や観光業者がどっと押し寄せました。プラハの旧市街地区は、あっという間に投資家や金満家やビジネスマンが跋扈する商業絶対主義のメッカとなっていきました。
そうやって旧市街広場には観光客が溢れるようになりましたが、リアルな住民は寄りつかなくなりました。いや、寄り付けなくなりました。共産主義時代の負の遺産です。
プラハの旧市街広場一帯ににそこはかとなく漂う空虚感はそこに根ざしています。
北のローマとも形容される華の都プラハは、共産主義者に精神を破壊されました。心魂を破壊されたものの、しかし、街の肉体すなわち建物群は残りました。
さまざまな時代の、さまざまな様式の建物が林立するその街は、やがて“建築博物館”の様相を呈するようになり 、それが旅人を魅了する、というふうに筆者の目には映りました。