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安楽死ではなく「安楽生」のみが正義である

老婆手800


2021年11月、イタリア生命倫理委員会が、安楽死を切望する四肢の麻痺した40歳の男性の自殺(幇助)を認める決定を出しました。

イタリア初の出来事です。

イタリアではことし8月、安楽死を法制化するように求める署名運動が75万人余りの賛同を集めました。

50万人以上の署名で国民投票が実施されるのがイタリアの決まり。

それを受けて、早ければ来年にも安楽死への賛否を問う国民投票が実施される見込みになっています。

イタリアの世論は歴史的に安楽死に対して強い抵抗感を示します。その最大の理由はカトリックの総本山バチカンの存在。

ローマ・カトリック教会は自殺を強く戒めます。

バチカンにとっては安楽死つまり自殺は、堕胎や避妊などと同様に強いタブーなのです。国民の約8割がカトリック教徒であるイタリアではその影響は大きい。

それにもかかわらず、安楽死を認めるイタリア国民の数は確実に増え続けています。

憲法裁判所は2019年、回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた人々が、自らの明確な自由意志によって安楽死を願う場合には許されることもある、という決定を出しました。

その歴史的な審判は、全身麻痺と絶え間のない苦痛にさいなまれた有名DJが、自殺幇助が叶わないイタリアを出てスイスに渡り、そこで安楽死を遂げたことを受けて示されました。

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2017年の事例です。

そこでも世論が大きく高まって、2年後には憲法裁判所のその決定につながったのです。

司法は続いてイタリア議会に安楽死法案の是非を審議するよう求めましたが、それは遅々として進んできませんでした。

だがイタリアは、署名活動の進展、前述の生命倫理委員会の初の自殺幇助の支持決定など、安楽死を合法化する方向を目指しています。

筆者はその動きを大いに支持します。「死の自己決定権」と安楽死の合法化は、文明社会の条件であり真っ当な在り方、と考えるからです

イタリアでは基本的に安楽死は認められていません。

憲法裁判所の裁定や生命倫理委員会の決定は、今のところは飽くまでも、いわば例外規定なのです。

それがゆるぎない法律となるには国民投票を経なければなりません。

現在は自殺幇助には5年から12年の禁固刑が科されます。

そのため毎年約200人前後ものイタリア国民が、自殺幇助を許容している隣国のスイスに安楽死を求めて旅をします。

イタリアの敬虔なカトリック教徒は、既述のように自殺を否定するバチカンの教えに従います。

医者を始めとする医療従事者はもっと従います。なぜなら彼らの至上の命題は救命であり、且つ彼らの多くもカトリック教徒なのですから。

だがそれは許しがたい保守性です。不治の病や耐え難い苦痛に苛まれている患者の煩悶懊悩を助長するだけの、思い上がった行為である可能性さえ高い。

筆者は以前、そのことについて次のように自らの考えを書きました。

同じことをここで彼らに伝えます。

安楽死や尊厳死というものはない。死は死にゆく者にとっても家族にとっても常に苦痛であり、悲しみであり、ネガティブなものだ。
あるべき生は幸福な生、つまり「安楽生」と、誇りある生つまり「尊厳生」である。
不治の病や限度を超えた苦痛などの不幸に見舞われ、且つ人間としての尊厳を全うできない生は、つまるところ「安楽生」と「尊厳生」の対極にある状態である。
人は 「安楽生」または「尊厳生」を取り戻す権利がある。
それを取り戻す唯一の方法が死であるならば、人はそれを受け入れても非難されるべきではない。

死がなければ生は完結しない。全ての生は死を包括する。「安楽生」も「尊厳生」も同様である。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければなりません。

従って、例え何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄り添って、延命措置を含むあらゆる手段を尽くして人命を救うべきです。

その原理原則を医療の中心に断断固として据え置いた上で、患者による安楽死への揺るぎない渇求が繰り返し確認された場合は、しかし、安楽死は認められるべき、と考えます。

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