ウクライナ大統領の演説の中でとりあげられた真珠湾攻撃
ゼレンスキー大統領の演説
ウクライナのゼレンスキー大統領が、アメリカ連邦議会で行ったオンライン演説中で真珠湾攻撃に触れたという。
「1941年の(日本による)真珠湾攻撃を思い出してほしい。(2001年の)米同時多発テロを思い出してほしい。空からの攻撃で街が戦場になった。私たちはロシアによる空からの攻撃で毎日、毎晩、この3週間、同じことを経験している」
真珠湾攻撃を持ち出されると感じること
真珠湾攻撃が、正式な宣戦布告前の急襲であったことは日本も認めるところで、アメリカでは2400名が殺された不当な侵略と受け止められている。それでも、このゼレンスキーの演説を知ったとき、こんなことを言って日本人を敵に回すのかという憤懣、真珠湾と9.11を並べないでほしいという不満、自分が非難されているような後ろめたさを感じた。だから、この演説に対してとっさにネットで巻き上がった、真珠湾攻撃は日本だけのせいではない、宣戦布告が遅れた事情や先に伝わっていたといったような言説を返したくなる気持ちはとてもわかる。自分達が非難されたと感じると反論して自衛しようとする本能が働くからだ。
でも、忘れてはいけないのは、「うちの父親が急襲の空爆に巻き込まれて殺された」という悲痛な訴えに対して、「米国が日本を経済的に追い込んだからだ」「宣戦布告が遅れたのには事情があった」という反論はなりたちえない。
侵略国の国民のたどる非難と排除
真珠湾攻撃の直後、アメリカに住んでいた日系人達は、アメリカ市民として生きようとしていた二世、三世を含めて、「真珠湾攻撃を行った国民」として非難され、強制収容所に送られた(後日謝罪を受けている)。
今回ウクライナ侵略が起こったときに、ロシア人というだけで学校でいじめられたり、コンサートを降板になったり、ロシア料理店に非難の電話が殺到したりしたという。
個人の意見を問うことなく、その国民だから悪いとひとまとめに排除する風潮は、孤立化とさらなる防衛反応を引き起こす。
私達は真珠湾攻撃を客観的に見られるようになるのかー
今回のウクライナ危機で学んだことがある。「批判すべきはプーチンの政策であってロシア人ではない」と呼びかける人がいることや、自国の侵略によるウクライナ人の犠牲に心を痛めていると表明するロシア人がいることだ。
非難されるべきは、政府による特定の行為であって、国民全体ではない。
人は、自分が批判されていないと安心できるようになったときに初めて、問題とされている行為を客観視して、自由に意見をいえるようになる。ロシア人が、「ロシア人を殺せ」という批判的な意見には口を開けなくても、自国の空爆によってウクライナ市民の命が失われているという訴えには意見を表明し、戦争反対と発言できるように。
ゼレンスキー大統領を含め、真珠湾を取り上げるときに、非難しているのは日本国民ではない。非難の対象は、平和な日常を壊す空襲行為、そして、多くの人が傷ついたという事実だ(だから、真珠湾の話題が取り上げられたときに批判から身を守るための反論の必要はない。必要なのは共感だ)。愛する家族を殺されたという事実を前にしても、日本人を憎まず、遺骨を探しつづけるアメリカ人もいる。突然の空爆で家族を失うという悲しい結果に焦点を当てられるようになったとき、批判から身を守るための反論でも、沈黙でもなく、事実を客観視して、国籍を超えて対話できるようになる。
12月8日、どのような経緯があったとしても、その日戦争が起こるとは想像していなかった無防備な民間人を含む若者達の命が奪われた。その日に戦争が始まることを予想さえしていなかった若者がなくなったことを思うとき、真珠湾攻撃は非人道的だったと思う。