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鹿の足跡

鹿の足跡をつけていくのが大好きだ。
恐竜の足跡の発見みたいにワクワクする。

毎朝、自分がかけた罠の見回りをする。
365日、雨の日も風の日も、罠をかけた以上は鹿がかかっているかいないか、必ず見回る。
これは罠をかけた者の責任だから御天道様に誓って真摯に実行。

罠を見回る時は必ず辺りの足跡も見て回る。
昨夜、かけた罠の上を歩いたのかどうか。

罠の上を鹿が歩いてくれなければ、収穫はゼロ。
もちろん、見回って鹿がかかっていれば、獲る。
かかっていなければ、そのまま罠を維持するか、別な場所へ移動するか考える。足跡は重要な手がかりだ。

くくり罠は、鹿が通りそうな場所に穴を掘って埋め、カモフラージュに土や落ち葉などをかけておくと、足で罠を踏んでワイヤーが跳ね上がり、跳ね上がったワイヤーの輪が四本の足のいずれか一本の足首をくくって拘束する道具だ。
手作りの人もあれば既製品を購入する人もいる。種類も様々。
ワイヤーの元を罠本体近くの木の根や幹にくくっておくので、足首を拘束された鹿は、根や幹を中心に1mほどのワイヤーで繋がれた状態になる。

その道50年のベテラン猟師には捕獲率は到底敵わないが、見様見真似で私だって努力することはできる。ベテラン猟師の言葉には重みがあるし、高い経験値に裏付けされたノウハウがちりばめられている。が、科学的な根拠のない言い伝えのような、昔話のような言葉もあるので、そこは自分なりに解釈して工夫を積み上げていくことが必要かなとも思う(笑)

見回り → 捕獲・見直し → 維持or場所変更架設 
→ 見回り →捕獲・・・・

365日、ひたすらこの繰り返し。
見回り作業は必ず朝。
昨日の午後以降、夜が明けて見回る時間までに鹿が罠にかかっていれば、十数時間も彼らはワイヤーにくくられた状態で暴れたり疲れたりしながら不安な一夜を過ごしていることになる。

アニマルウェルフェアについては別で書きたいと思っているが、動物への苦痛と苦悩は最低限に抑えるよう、今、猟師の意識向上が望まれている。

ワイヤーでくくられた動物は最短の時間で捕獲されなければならず、また同時に最低限の苦痛に留めて捕獲をしなければならない。
熊がいる地域では、罠にかかった鹿を食べることもあり、熊が自分の獲物と認識し、その食べ残しを隠した状態で(ワイヤーにつながれたまま)、戻ってくる場合があるので、罠に何かがかかっているときは注意が必要だ。自分の獲物を取りに来た人間を襲う可能性が高い。

熊のことだけではない。
罠を見回るとき、心の揺れ幅はとても大きくなる。

前日、新しい足跡を見つけ、その足跡から罠をかける場所を決め、思案の後に架設したならば、やはり何かが罠にかかりますように、と思っている。
だけど翌朝、見回りに出かけて次第次第に罠に近づくとき、どうか何もかかっていませんように、と思う。
実際、罠全てを見回って、何もかかっていなければ、なぜかホッとした気持ちになるし、いやでも、うーん残念、とも思う。

罠に近づき、ガサガサと木の葉が揺れる音がして、罠の部品音が聞こえ、鹿の顔がこちらを見ているとき、かかった!と高揚する。自分の架設は間違っていなかったと素直に喜ぶ気持ちが湧きあがる。が、しかし、すぐさま命をいただくことに向き合わなければならない辛さと悲しさが、同じ面積で私の心を支配する。

毎回、対極に置かれた感情が私の中であちこち飛び回る。

鹿の足跡

昨夜、この鹿はどこへ行こうとしていたのだろう。
他の鹿たちは今どこにいるのだろう。

ある夏の朝、くくり罠にディズニーのバンビのような小さな小さな小鹿がかかっていて、そのまま息絶えていた。それを私が見つけた瞬間、すぐ近くで「ぴいっ」と鹿の警戒音が聞こえた。それまでずっと母鹿がそばにいたのかもしれない。

・・・・・

大きな足跡と小さな足跡が雨上がりの泥濘(ぬかるみ)に残されていて、今日もそれをしばらくつけていき、鳥の声が響く静かな山肌に、私はまた次の罠を黙々とかける。
山の神様と鹿の神様に感謝をし、私の罠技術の向上を願い、そして、私の前に現れる鹿は撃っても良いと言ってくださっているのだと信じ、山の土に小さな線香をたてる。紫煙に手を合わせ、たぶん、この気持ちは、私だけじゃない、昔も今も多くの人間が感じてきた気持ちなんだと気づき、少し安心した。

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