”地元”に宿る偶然性
朝起きた時
たまに自分の現在地がわからなくなることがある
実家の布団
祖母の家の布団
北海道にいた頃のベッド
なぜか不思議と当時の自分も呼び覚まされる
少ししてから現実に戻る
今ここにいることは
どうやって理解できているのだろうか
◇◇◇◇◇
私の中にはたくさんの思い出・記憶がある
・思い出は場所と繋がっている
小学校の校庭
高校の近くのスーパー
・思い出はそれをシェアする仲間と語られる
友人
好きな人(あるいは嫌いな人)
・思い出はたまに浮かぶ
仕事で疲れた時
仲間と再会した時
ここまで考えて、朝起きた時の現象を探ると
きっと「仲間」を思い出しているのだと思う
一人暮らしだからか
動物の本能的な部分で社会性を求めているのか
◇◇◇◇◇
SNSというツールによって
僕らは簡単に話ができるけれど
そんな世界になる前は
遠距離な仲間とは出会うことしか手段がなかっただろう
その時の感動はきっと、今以上で
それは仲間との時間や場所が波のように押し寄せてきて
言葉が出ないのだろう
そんなことを考えると
朝起きた時のあの感覚は
現代を生きる私に向けての
ささやかな偶然の提供なのかもしれない
必然のように語られて
必然のように感じられる日々への
ささやかな抵抗
◇◇◇◇◇
仕事に恵まれ導かれ
私は北海道、山口県で暮らすという経験をしている
これからも旅を続けたり
地元に帰ったりすることはあって
まだ見ぬ地域で生活をすることもあって
偶然には感じられないかもしれないけれど
地域での新しい仲間との交流が芽生えて
気がつくと地域が地元になっている
そんな日々はたまらなく愛おしいと思う
文字にしてみると結構、楽しすぎる毎日
当たり前にならないように、私は私を今日も監視する