
体力は無限ではなく回数券だった――病気を通して感じたこと
病気になって初めて、体力が無限にあるものではなく、「回数券」のように限りがあるものだと気づきました。
普段の生活では、「やりたい」と思えばすぐに行動に移せるものです。たとえば、手を洗いたいと思ったら、洗面所まで行って何度でも洗えます。オレンジを切りたければ、まな板を取り出して包丁で切ることができます。けれど、体がしんどくなると、洗面所までの距離が急に遠く感じられ、まな板を取り出すという動作すら負担になってしまう。
行動の優先順位をつけざるを得なくなる
こうなると、一つひとつの行動に優先順位をつけざるを得ません。「手を洗う」「オレンジを切る」といった、何気ない動作ですら慎重に選ばなければならないのです。オレンジを食べたいけどまな板を出すのがつらい。そんなときは、切れ目を入れてあとは手でむしる、といった形で妥協しながら暮らすことになります。
これまでの「やりたいからやる」という自由な選択はできず、「限られた体力の中で最適な方法を探す」ことが求められる。病気になると、すべての行動がまるで回数券のように、一回ごとに消費されていくのです。
「老いる」とはこういうことかもしれない
この体験を通じて、「老いる」ということの一端を垣間見たような気がしました。今は何の苦もなく上れる階段も、年をとれば崖のように感じるかもしれない。広々とした家も、若いうちは快適かもしれませんが、年を重ねると移動が負担になり、むしろ狭くて動線の効率的な家のほうが暮らしやすくなるでしょう。
普段の生活では気づきにくいことですが、体力があることは当たり前ではありません。健康なときほど、その貴重さを忘れがちです。しかし、いつか誰しもが体力の「回数券」を意識しながら生きる時が来るのかもしれません。
まとめ
病気を通じて、私たちはいかに日常の動作を「無限にできる」と思い込んでいたかを痛感します。そして、それが限られた資源だと気づいたとき、どのように工夫して生きていくかが大切になるのだと思いました。
健康なうちに、自分の体と向き合い、無理のない生活環境を整えておくこと。それが、未来の自分を助けることになるのかもしれません。