「共事者」の矜持
きっかけ
『ゼロからの「資本論」』を聴き始めたが、私には難しすぎたので、もう少しカジュアルな本から入ってみることにした。
『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』
著者: 斎藤 幸平
「安全なところにいる」という引っ掛かりと、作者からの答えと
この直前に『ロスト・ケア』を聴いていた。そこでの「安全なところにいる」というフレーズがずっと頭に染みついている。そのためか、この本についても知識人が安全なところからモノを言っているというという引っ掛かりにつきまとわれながら聴いた。理想や望ましいとおもわれる状態の裏にある矛盾や理不尽さや犠牲をどう考えるのか、けっきょく当事者ではない「あっちがわ」のひとなんじゃないかと。
最後の章で、研究者として現場に踏み込み書くことへのためらいと、でもやるという姿勢や態度表明があった。そこは本人も気にしているうえで、執筆していることは分かった。
「共事者」ということば
「共事者」=事を共にする人、当事者とは違う関わりの整理。このことばが出たことで、概念としては理解できた。ただ気持ちや感情がすぐに落ち着きどころを見つけられるわけではない。
毎日書く意味
0時を超えてしまったため連続投稿には途切れたが、毎日noteを書くようにしている。正直、文書や考えは練れていない。私が何かやらかしたときに、このページで人物鑑定をされると困る。
なんだけど、書くことを苦手と言っていたらいつまでもすすまない。毎日書くと決めることでネタを集め、文字にしていく。大量生産をすることで筋力をつけていく。それが毎日書く理由である。
だから、浅さはそれと引き換えにしているもの。続けることがだいじ。