見出し画像

ゆりこ、保育士資格取得を目指す〜短大に進学〜

ゆりこです。こんばんは。私が保育士になろうと思ったきっかけは母と年長の担任の先生でした。

①母の夢

母には夢がありました。でも叶わなかった。それが保育士です。保育園の先生になりたかったそうです。そのことを私に子どもの頃何度もお話していました。そして、年長からピアノを習います。

目的は保育園の先生になるため、させるため。

そして、母方の祖父は市内の芸術協会の委員長でした。そのため、音楽にお金を出してくれたのは母方の祖父でした。もちろん、ゆりこが自身の配偶者の生まれ変わりという気持ちもあったと思います。私が成人後も言っていましたから。

私は保育園の先生になるためにピアノを習わせてもらいました。

そして、周りの大人で大好きだったのが年長の担任の先生。私は年長のあの先生みたいになりたいなぁと子どもながらに思っていたのです。小学校の1年生の時も2年生の時も小学校の担任の先生が大好きでした。

とにかく年長、1年生、2年生の担任の先生、周りの大人が優しくて好きでした。つまり家以外の周りの大人のことが大好きでそうなりたいと思っていました。

だけど、ゆりこは勉強ができませんでした。小学校1年生の頃から国語が苦手でした。算数の時計の問題でつまづきました。問題の言っていることがまず分からない。重症でした。学校の先生にはなれないと子どもながらに思いました。

そのまま大きくなって…小学校の卒業アルバムに将来の夢の欄は「ほぼさん」と書きました。


②進路を決める時

私はお母さんの言う通りに生きるのが嫌な時期がありました。女は家に残る。弟2人は外へ行ってもいい。そういう感じでした。

そのため、保育士の資格も実家から通える隣の市の専門学校に行くように高校1年生の頃から言われていました。その中でも規律正しい専門学校に。ですが、本当は嫌でした。

私は勉強ができませんでした。弟たちと違う高校です。高校も母の言う通り、推薦でいけるところにしなさいとのことでした。高校選びはすぐでした。しかし、本当は大学とか行きたかった。福祉の勉強を広く行いたかった。心理学も勉強したかった。これが本当の気持ちでした。


保育士の資格を取らねばならない。


とにかくその頭がいっぱいでした。

高校3年の時の担任が福祉系の科目担当の教員でした。清掃の時などに障害児施設で働いていた話を聞き、大変だよぉ〜とは聞いていました。

その先生が進路の面談の時に私に「本当に〇〇の専門学校でいいの?」と何度か訊いてくれました。

先生に正直に話しました。本当は別の短大に行きたいことを。でも、落ちるかもしれないことも分かっていることを話しました。同じ部活だった先輩が2回受けて落ちてしまい別の短大に行ったのを知っていたからです。さらには両親も反対していることも話しました。

三者面談で先生は味方になってくれました。今でも高校3年の担任が福祉科の教員で私のことを見抜いて本心を聞き出してくれていなければ、短大の話はしなかったことでしょう。三者面談で母は表面的に「そうなんですね。」と言いつつ、「でも落ちると思う、無理だと思います…隣の市の〇〇の専門学校の方が大丈夫ですよね?」と言われたのを覚えています。家では猛反対の嵐。なにも聞いてくれませんでした。

父に相談しました。どうなってもいいようにと父がオープンキャンパスに車で連れて行ってくれました。保護者説明会は周りの受験生はお母さんが来ていて…わたしは反対されているからと悲しくなりました。募集要項などもその時にもらうために父に話をして行きました。


前年度のAO試験の倍率が7倍。


正直ダメだと思いました。けど、担任の先生が一緒に作戦を考えてくれました。当時のAO入試は7月上旬までに応募し、8月個人面接と9月集団討論という試験日程。10月に結果という流れでした。

その結果が出るまでの間に落ちたことを考えて次の推薦の小論対策、面接練習をすること。同時並行でそれもダメだった時のために筆記試験対策をする。

とにかくやれることはやると決めました。


願書を出す時、母は怒り狂ってました。紙をぐちゃぐちゃにされました。泣きながら書いて涙が紙に落ちてドライヤーで乾かしたのを覚えています。予備があったので、それに書いて父の了解のもと母に反対されたままギリギリの日に願書を出しました。辛かったです。


個人面接の日、怒鳴り散らされて泣きながら会場に行きました。あまりにも泣いたのでコンタクトレンズがとれて面接官の顔がぼやけていました。椅子の位置も危なかったのを覚えています。それと同時に「社会福祉系の大学に行くべきでは?」と強く言われました。学内に社会福祉系の大学があったので、そちらではないか?幼児教育学科ではないと強く面接官に言われたのを覚えています。心の中ではその通りだと思っていました。 なんとか切り抜けたのを覚えています。


担任の先生にその話をして、やっぱりダメだと思うと言いながらも次の討論の練習を1対1でしてくれました。

1日喘息発作でお休みしました。当時、夜間がひどかったのです。あの頃、病院も自転車で行っていた私。先生から「自転車で行くの?」と何度聞かれたことか。喘息なのに自転車っておかしくないか?って思われてたと思います。行く方法が自転車しかなかったからゼコゼコしながら行って、帰ってきて、小論文対策受けて…先生たち意味不明だったと思います。

病院の呼吸器内科の主治医にはストレスからだろうと言われました。ストレスで喘息って起きるの!?意味がわからないと思いました。でも、たしかに高校の推薦前も喘息が起きていました。病院の看護師さんが優しくて、吸入器の練習をする時も「高校の制服可愛いね、すごく似合うよ。」って言ってくれたのがすごく嬉しかった。そういう大人の声が私は泣けるくらい嬉しかった。


担任の先生は夏休みとにかく沢山面接練習をしてくれました。第三者の目もといって、副担任の先生も学年主任の先生も面接練習した記憶があります。進路指導室の先生も。そして9月のグループ討論の試験も担任の先生と福祉科の先生の職員室や福祉科の教室で練習してくださったのを覚えています。感謝でいっぱいです。同時に小論文も進路指導の先生と時間を合わせていつも1対1で見てくださいました。英語の先生でした。本当に先生に恵まれていました。


先生方の力もあり、私は最初のAO試験で合格することができました。そして、合格日が両親の結婚記念日と同じ日でした。昼休みに父に電話をしてお互いに携帯でホームページと受験番号を確認。電話で泣いてくれました。嬉しかったです。


こうして、県内では歴史のある幼児教育の短大に入学することが決まりました。


次回は入学後のお話しや施設保育士になることを決めた経緯を書いていきたいと思います。

今回もだらだら書いてしまいましたが、読んでくださった方ありがとうございます。


2021.11.14

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?