〈画廊に行くようになって気がついたこと〉まとめ、1−5
第一回
画廊に行くようになって気がついたこと
すこし大上段に構えていますが、これから画廊に行ってみようという方への参考として、私がどんな切り口から絵をみているかということをツラツラ述べてみようと思います。
まず、強調したいのが、作品は、物質でできているということです。
美術といえば、観念的なもの、イデアや、作家の心の中の世界をえがいたものと思いがちです。
それは、それで、間違いではないのですが、質量と形相のように、表現されたものは、表現したものによって表現されています。
形のない観念は、物質によって形として表現されているのです。
画廊で、作家と仲良くなっていって、「美術作家というのは、限りなく物に縛られているからね」とか「唯物主義者だよね」とかいうと、結構、ニンマリしてくれています。
実際に、洋画家は、あのオイルの匂いに包まれながら、木彫りのひとは、木屑にまみれながら、陶芸家は、土にまみれ、火の前で耐えながら、作品を制作しているのです。
第二回
作家にとって自分が扱う具材やものとの関りというのはかなり重要なものではないでしょうか。
修業時代から、下手すると死ぬまで、そのものと付き合い続けなければならないのです。手法を変えたりする人もいますが、多くは、出会ったものと四六時中かかわるわけです。
木彫りの方から、カヤノキを使っている別の作家のところに行ったら、匂いがきつくてたまらなかったと聞いたことがあります。そのことをカヤノキを使う作家に匂いがきついねと声をかけたら、たまに我慢できなくなることがあるといわれたようです。
想像してください。油絵のオイルや溶剤の香りのぷんぷんする美術室で、暮らし続けるということを。
美術作家にとっては、そのこともコミで、絵の具や物とつきあうことを選んだということです。
いじわるじゃないんですが、たまにそのことを聞いたりもします。その反応も、作家、それぞれで、面白いですよ。
第三回
東北出身の方とお話した時、東京に来て、光の感覚が違う?
と聞いたことがあります。
違いますね、来たばっかりは、真っ白って感じです。とその方は言っていました。
日本列島というのは、北から説明すると、北海道から、まっすぐ下に降りて、関東から、グーッと西に行って、九州から沖縄までぐんぐん下におります。
緯度によって太陽光線の角度が、かなり違います。私は九州の北の出身ですが、鹿児島までいくと、陽の光がキツイというか痛いと感じたことがあります。奄美大島では、真っ白だなと思ったこともあります。
人の感性は、育ったところの風土の影響を強く受けています。絵かきは特にそうでしょう。出身地域によって、色に対する感覚が全く違うと思います。
画廊では、アーティストにどこの出身ですかと聞くことにしています。
ただ、日本において、人口が多いのは、博多から東京までの地域なので、緯度があまりかわりません。
逆にいえば、多くの人が馴染んでいる色の感性が当たり前と思いがちなんです。だからこそ、沖縄、南九州、東北、北海道の人の絵は、すこし丁寧に見たほうがいいかもしれないと注意してます。
第四回
作家を前にして作品を観るのですが、作家には中心点があるということです。
あたりまえといえば、あたりまえですが、そこと作品、作家は繋がっているのですが、そのことに、作家が自覚的だとは限りません。
また、作品から読み取ることも、必ずしもできるものでもありません。二つを並べて、もしくは重ねて、その向こうの向こうにボンヤリ見えるもののように思います。
比喩としてはよくないのですが、その中心点は、〈イデア〉のようなもので、たしかにあると思いますし、そう思ってみることも大事でしょう。
作品からだけでは、つかみ取れないことも少なくないです。作家と話しながら見えてくるものも、少なくない。
若いアーティストは、むしろ、それが、ボンヤリしていて、逃げ水のように、つかもうとしては、逃げられて、葛藤していることも少なくないでしょう。
第5回
ネットの映像や書籍の印刷でなく、直接、絵を見に行くようになって、考えるようになったことは、額装をはじめとする作品の装いのようなものです。
油絵で説明しますが、油絵のキャンパスは、木製の枠に画布をはっているので、絵をえがく面とその横の面があります。絵をえがく面の脇というかはみだしのようになっていることが少なくないのですが、作家によっては、側面に仕事をきっちりする方もいます。三色のストライプのテープのようなものを貼っていたり、枠組みのような単色をあしらわれる方もいます。
絵の延長のようなものが残っていることもあります。
ここには、絵や図像にたいするそれぞれの考え方があらわれていると思います。
側面を仕事をしているひとは、見方によれば、絵、単体で額装の意味をふくませているときもあります。
また、中央の画像の延長としてある場合は、画布そのものに図像をえがいて、それを木枠に張り付けるという思考をしているかもしれません。
側面に仕事をしていないというのも、日本文化での水墨画のように、それを一種の余白として残しているのかもしれないということです。
このところを直接、アーティストに聞いてみると面白い反応がもどってくるかもしれません。
また、額装による効果なども面白いものです。
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