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ほんのしょうかい:碧海寿広『仏像と日本人』〈『思想の科学研究会 年報 Ars Longa Vita Brevis』より〉

碧海寿広『仏像と日本人』(中公新書)


 父や母をはじめとしたわたしたちに育てられたわたしの信じるこころや祈りの心持ちは、近代化の中で、わたしから引き離された領域での「宗教」や「信仰」という枠組みで吟味されるようになる。そのため、日本の近代は、わたしから離れた形での宗教をとらえることを、一度は余儀なくさせていく。碧海寿広『仏像と日本人』は、明治以降の日本の文化の中で、人々が近代的な考え方と伝統的な宗教にどのように折り合いをつけていったかということを、「仏像」というテーマを軸に検証した一冊である。 明治維新以後、廃仏毀釈から始まる仏教界の変革は、多くの「仏像」を失わせた。その後、「仏像」は、寺院・仏閣と共に、文化財保護の観点から再評価が始まる。それを先導したものは、フェロノサや岡倉天心等によるものであるが、価値、もしくは評価を定める基準を持ち込むものでもあった。大正時代にはいり価値は美術品としての「仏像」を顕現し、美の基準の習得と再吟味への活力を引き起こしていく。そして、それは、教養としての「仏像」を発見していくが、それは同時に観光という現象をも導くことになる。観光の現象は、その反感としての精神性を呼び起こし、戦時下における精神的な動揺とも重なり、宗教の再発見と結びつくことになる。 美術、宗教、共同体における信仰という紐帯、その中で仏像は、映し出されるスクリーンによって様々な形で表現されていく。仏像を前にして何を写すのか、仏像に出会うとは何か、それは自分への問いとしてあらわれる。土門拳、入江泰吉、白洲正子、そして様々な文化人、表現者をとりあげながら、敗戦から戦後、そして日本の社会変化におうじて意味を変えていく「仏像」の姿を、この本で筆者は論じ続けている。 PH・フォルジェ篇、J.デリダ/H.G.ガダマー他『テクストと解釈』(産業図書)には、一九八一年、パリのドイツ文化センターでガダマーが行った講演が載せられているが、そこでガダマーは、デリダに呼びかけて、「テクスト」に戻るしかないと発言している。 その「テクスト」という見方を考えると、この本における「仏像」は、直接、描き出されたものではあろうが、あくまで「日本の文化と歴史」の中での「宗教現象」という額縁の中での「図像」としての「仏像」でしかない。ひとの営み、ひとびとの営みとしての制作するもの、制作されたものとして「仏像」を考える時、それは、技術や文化という経験が編集されたものであり、それを解いては編み直して、自分たちのあらたな経験を組むこむことで新たにつくられていくものでもある。「仏像」という器に組み込まれている「経験」の記憶が、新しい「仏像」を生み出す。また、信仰や宗教から大きく逸脱したようにも思える「仏像」をも生み出していく。現代アートの中で描かれる「仏像」の姿や、松山淳の四天王のようにポーズをとる女子高生の像、「仏像」は様々なモチーフとして、アートシーンにあらわれている。そして、現代にも活動している多くの仏師の存在も忘れるべきではないとおもう。
 このあたりまで広げて考えた時、この一冊に縛られるべきではない。けれども、碧海寿広『仏像と日本人』は、よくまとまった学ぶべき本であろう。知識を得るのでなく、自分への問いとしてあらためて、この本を読もうとした時、深い何かが、自分の中に萌すように思う。(襾漫敏彦)


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