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紹介『思想の科学研究会 年報』 ーーー第四号 PUBLIKOーー
思想の科学研究会では、研究会の活動を活性化させ、外側の人にも伝えていくために、『思想の科学研究会 年報』を発行しております。
第四号 PUBLIKO について紹介します。
![](https://assets.st-note.com/img/1672554025650-5c2S2cgk0v.png?width=1200)
目次と構成
「PUBLIKO」は大きく五つのパートから構成されています。
まずは目次を提示します。
論説・寄稿
無底の蒼穹に投げる、私のことば 本間伸一郎
余は如何にして基督教徒を辞めし乎第二回 中島義実
批評にとって時間とはなにか 飛矢崎貴規
深層意味論入門 今江崇
教育にとって「民間」とは何か 小林千枝子
「世間」の動態 林英一
メディア・アクセス権の今昔 後藤嘉宏
特集 壁を越えるために
定例談話会 衣笠弘志
『お互い少しずつ不自由を我慢するーーエスペラントについて』
太田幸夫インタビュー『コミュニケーションの未来を、デザインする 』
解説とあとがき
エッセイ・創作
去年(こぞ)の坂 未来の坂 山城美由紀
なぜ、ハワイ 山本英政
・アロハの心に魅せられて
・二世の里帰り
美の街道
表参道 武蔵小杉 襾漫敏彦
博多のロックバンド
コーガンズ 橘正博
研究会の活動について
【ほんのしょうかい】
・勝井三雄『曜変天目 あるいは 心』白水社
・ロビン・ディアンジェロ著 貴堂嘉之監訳・上田勢子訳
『ホワイト・フラジリティーー私達はなぜレイシズムに向き合えないのか?』明石書店
・梁英聖『レイシズムとは何か』ちくま新書
・ 荒木優太「転んでもいい主義のあゆみ」フィルムアート社
・千葉雅也「現代思想入門」講談社現代新書
・杉本仁『柳田国男と学校教育』梟社
構成は、論説・寄稿、特集、エッセイ・創作、研究会の活動紹介の㈣つのパートからなります。
寄稿は、会員等の自由な投稿を基本にしています。今回は林さん、飛矢崎さんという外部からの投稿もありました。
特集「壁を越えるため」には、エスペラントと視覚言語によるビジュアル・コミュニケーションにまつわるお話をお聞きした、その記録です。
第二次大戦前夜、国民国家の進展に伴い分断が生じてゆきます。その分断を背景とした様々な問題に、取り組もうとした試みとして、エスペラントやISOTYPEは、期待されてもいました。
2010年代より、世界の、社会の様々な場所で、分断が目につくようになっています。エスペラントを提唱したザメンホフや、ビジュアル・コミュニケーションを利用して、社会改革を目指したノイラート、そしてエスペラントとISOTYPEのその後の展開から、学ぶことも少なくないと思います。
論説・寄稿では、『余は如何にして基督教徒を辞めし乎』は第二回です。今回の補足として前回触れた日本の戦前の「ホーリズム」の動きについて、改めて検証した記事が補足としてついています。
『深層意味論入門』、『無底の蒼穹に投げる、私のことば』は、今号の特集と連動して認識論、言語論の論考になったいます。
社会でのコミュニケーションの問題に関わる論考が集まったのも興味深いと思います。
年報は、以下のサイトから閲覧可能です。
最近、研究会のサイトは、引っ越しをしました。
投稿に関して
基本的には、一般の投稿も受け入れたいと考えています。ただ、仲間内で制作している同人誌のような性格が強いので、そこを理解してもらった上で投稿を受け入れるつもりです。
まずは、投稿の案内に沿って研究会の方にご一報ください。
最後に巻頭言を掲載します。
巻頭によせて 山本英政
本誌のタイトル、PUBLIKAは「公衆」を意味するエスペラント語だそうだ。権威をきらう「思想の科学研究会」の意志がうかがえる。
『思想の科学研究会年報』は本編で第四号となった。短命な雑誌を業界ではからかい気味に「三号雑誌」と言うそうで、とりあえず創刊にかかわった人たちは安堵しているに違いない。
三号雑誌を「カストリ雑誌」とも言うのだ、と聞いたことがある。そのあたりのことを少し調べてみた。
終戦直後の数年のあいだにどさっと現れすぅーっと消えていった性風俗の品のない雑誌を、三合飲むと倒れてしまう粗悪な密造酒になぞらえ「カストリ雑誌」と呼んだ。その三合に引っかけてすぐに潰れてしまう雑誌を「三号雑誌」と揶揄したというのがどうも、通説のようになっているらしい。さらにネット情報では、占領下でGHQが創刊から三号あたりのカストリ誌群を検閲にかけ多くを発禁処分にしたことから、そう命名されたとの別の謂れが載っていた。わたしなどはこのGHQ説につよく反応してしまった。
いずれにしても、戦後になって長続きしない雑誌に「三号」が付されたのかと納得しかかったのである。
ところが、「「三号雑誌」の語源-あるいは、同人誌はなぜ三号で終わるのか?-」(日本古書通信)という小論を探し当てたのだ。読んで驚いた。すでに明治のころ、短命な雑誌のことを三号雑誌と呼んで軽侮していたというではないか。そして大正期末から昭和にかけてたくさん出版されさっと散っていった同人誌にもこの呼び名が当てられたそうだ。
となると、三号雑誌の語呂にあやかったのはカストリ雑誌の方ではないかと書き手の小林昌樹氏は推察するのである。
俗説がときに通説となり、それを上書きするようなストーリーが真実を遠くへ追いやってしまう。
世間で了解されていることを通念または常識などという。常識を額面通りに受けとり思考を停止してしまうと、ときにそれは固定観念に変質する。そのありさまは、「心の中にこり固まっていて、他人の意見や周りの状況によって変化せず、行動を規定するような観念」(広辞苑)に苔むしてしまうのだ。いま内外で起こっている問題群のなかに力をもつ者のこの観念が大きな災いとなってPUBLIKAを苦しめている。
本誌の副題は、「大事なことは学ばない」と少々、謎めいているが、ゆたかな知見を得るためのまわり道と体験のすすめだと斟酌する。