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【画廊探訪 No.110】研磨して刻む失われる記憶の匂い ――飯島祐奈『石でキリトル』ギャラリー東京ユマニテに寄せて――
研磨して刻む失われる記憶の匂い
――飯島祐奈『石でキリトル』ギャラリー東京ユマニテに寄せて――
襾漫敏彦
風景は、日常の背景として、あたりまえのようにあるものとして考えがちである。大自然に抱かれて生きてきた、かつてとは異なり、街では毎日のように建物が壊されては新しいものへと取り換えられている。
空間は切り抜かれて記憶と共に忘却の深みへと突き落とされていくのか。日々、触れることの出来た場所が、人の交わりと共に失われたのに、失った瞬間から、そこがどのような場所だったのか、どのような景色だったのか、思い出せなくなる。
飯島祐奈は、石材を切断して立体を造形する作家である。切り出された幾何学的な形の表面に、傾きや湾曲、歪みを磨きあげていく。幾何学的な形は、言葉のように普遍的なものを語ることのできる形式である。それは、客観性が高く、主観的な内面を表現しようとするものにとっては、受動的なものでもあろう。それに比して、傾きや湾曲、歪みというのは、そこに加えることのできる能動的に伝えようとする彼女の主観性の趣きであろう。
三匹の子豚の物語に出てくる藁の家、木の家、レンガの家は、この話の中では、優劣の評価がつけられている。けれども風俗・文化の流れの中では、それぞれの意味がある。藁の移動性、木の乾湿の調節性。そして、石は普遍性、継続性の特質がある。それは、石碑や墓石等、かえれぬ過去に基づく記憶や記録につながる。
これまでが、力技でキリトラれるとき、多くのものもキリトラれていく。石に託して飯島が語るのは受動的に扱われる記憶である。それでもキリトラれた後に何かおかしいと思うその心持を、記憶をあらためて磨き直して彼女は、記録していくのだろう。