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【画廊探訪 No108】存在を問うて、生命の力に触れる ―――『XYLOLOGY――木学』<01 起源と起点>         中里勇太出展作品に寄せて―――

存在を問うて、生命の力に触れる
―――『XYLOLOGY――木学』<01 起源と起点>
         中里勇太出展作品に寄せて―――
襾漫敏彦
 <そこに存在する>という言葉は何を意味しているのか。プラトンのイデア論、アリストテレスの<質量>と<形相>、ソシュールの<シニフィエ>と<シニフィアン>。それは、人類の歴史の中で、形をかえては繰り返された議論である。けれども<素材>を使って<本質(エッセンス)=表現したいもの>をいかに伝えるかということに関わる芸術家にとっては、おざなりにできないテーマである。
 中里勇太氏は、木を素材にして、動物、特にケダモノともいわれる毛におおわれた存在を表現していく。彫り起こした造形に、丁寧に下塗りにてベースを整え、一本一本の毛までも、そこに存在があるかのように繊細に彩色をほどこしていく。
 日本において仏像といえば、彩色をほどこさない仏像を思い浮かべる。そこには、木の中にもある仏性を彫り出そうという思想があり、具体的な存在として現われた<本質>と向きあおうとしたのかもしれない。けれども千年も遡れば、木は表面に彩色をし表現するために形をととのえるための支持体のひとつであった。ここには、存在する<本質>を権(かり)の姿に現し、見る者の内に伝えようとする考えがあるのだろう。
 この二つの思想は、ひとりひとりの芸術家に投げかけられる難問である。これは製作と作品において答えるしかない。
 中里氏は、彩色において木であることを一度は否定する。けれども生命(いのち)をもった木であることを尊重する彫りは、素材の中にある生命(いのち)の<本質>を呼びおこす。かくして、存在の力に支えられて存在はあらためて表現される。これは<素材>と<本質>、二つのテーゼの止揚(アウフヘーベン)のひとつの形態でもあろう。

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中里勇太:ブレイク前夜132で紹介

https://www.youtube.com/watch?v=JPYvOzAvngU

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