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【画廊探訪 No.096】僕の思考が漂う自然を、模して ―――京都造形芸術大学大学院青木芳昭ゼミ展『物質から再考する物語』能條雅由出品作品によせて――――
僕の思考が漂う自然を、模して
―――京都造形芸術大学大学院青木芳昭ゼミ展『物質から再考する物語』
能條雅由出品作品によせて――――
襾漫敏彦
自然とはどういうものであろうか。世界遺産といわれるものや美しい映像を思い浮かべることも少なくなかろうし、文学作品に描かれた風景を考えたりもしよう。しかし、物思いにふける部屋から一歩外に出て目にするのは、ひび割れたアスファルトから生えた草や、空き地の雑草であったり、雑木林だったりする。そこにある自然には、人の意図から放り出された寂寥すら感じる。
能條雅由氏は、写真と銀箔を使って作品を展開する日本画家である。彼の描く自然の風景は、少しずつ手入れが滞って投げ置かれた雑木林や、ふと目にする緑。それはどこか焦点を失った光景であり、ここと指し示される方向を失ったものでもある。印象としていえば、彼の学が京都よりも郷里の神奈川に近く、理想(イデー)を実現しようとした古刹の名庭よりも、寺域の歩道の傍らの林に近い。
凝視して意味に捕らわれるのでなく、所在のなさに散策して思いを巡らせる、彼の描くのはそのような風景なのだろうか。全体の中にある意味を捉えれた時代が終わり、散逸する全体という今日の中でみえる姿かもしれない。
日本画の世界では、金箔が使われることが多い。そもそも金というのは変化しにくい物質である。それに比して、彼の手にする銀は様々なものと結びつきやすく時と供に変性しやすい物質であり、今回の作品にも既に変化が生じている。時による劣化を含んだ表現は、永遠の姿をあらわそうとする美術の世界では、根をもたずに風に飛ばされてゆく植物のように時にも場所にも落着しない表現かもしれない。だからこそ、どこへでも飛んでゆけるのかもしれない。
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能條さんのウェブサイトは見当たらないのですが、ネットではいくつか紹介めいた記事が見つかります。