#48 その言葉の周辺の文脈や、オシム、萩本欽一という人間
オシム監督が亡くなったって、さっき聞いたよ。
日本のサッカー監督だったけど、いい夢見させてもらったよな。
80歳か。
日本じゃないけど、平均寿命というか、ある程度の年いけば、誰だって亡くなるんだなと思う。
英語?ラテン語?で言えば、こういうとき、R.I.P.、Requiescat in pace で「安らかに眠れ」というのかな。
でも、日本語はもうちょっと深みがある。
■ ご冥福をお祈りします
死んだ後の幸せを祈るってこと。
安らかに眠れより、その先まで思ってていいじゃんか。
また別の発想で、俺たち日本人からすれば、彼に
■ お疲れさまでした
って声をかけることもできる。
オシム監督と言えば、オシムの言葉だ。
いろいろあるけど、まあ、オレが好きな言葉は
■ それでも人生は続くんだ
って言葉かな。
・・・
好きな言葉ってことで言えば、もうこのバーで、さんざんあれこれ語ってきた。
同じじゃなく、今ふっと「言葉」で思い出すのは2つ。
1つ目は、萩本欽一さんの「人生が楽しくなる気持ちのいい日本語」だな。
例を挙げるけど、すぐこの意味わかるかな。
貧乏だった萩本家で、高校生だった欽ちゃんは新聞配達をしていた。
ふらふらになる息子に、やはり、貧乏の中で頑張る母親が、お使いを頼んだ。
最初、欽ちゃんは「いやだよ」と言う。
母親は「忙しくて手が回らない」って言う。
そこで、欽ちゃんは「じゃあ、行ってくるよ」と答える。
そこで、母親に殴られたそうだ。
「どうせ行くなら、最初からいい返事をしなさい」
・・わかるかなー。
欽ちゃんはこの本で、「余分な言葉は言わない」というタイトルを付けて、「じゃあ」は余分だったと言うんだ。
分かるかなー。
「じゃあ、行ってくるよ」と言ったら、交渉成立だ。
でも、母親は、子どもが無理をして自分の言うことを聞いてくれた、いや、息子に無理をさせてしまったと思うことになる。
そこもわかったうえで、「お使い」を頼んだ。
で、結局、本人が頑張れば「行ってくる」ことができる。
その程度のことでもあるんだ。
母親は、そんなにたいそうなことを頼んだわけでもないんだ。
貧乏で大変だということはわかる。
でもその貧乏を理由に、できることをできないなどと言うような人間になってはいけないって、母親は教えたかったのではないかな。
だから殴った。
自分の都合で殴ったんではなく、息子に、どんな状況にあっても、できるんだったら最初からいい言葉を言えと教えたんだと思う。
分かるかなー。
・・
言葉というのは、人間が発するものだ
言語学的に言ってみようか。
文法的に、日本語や英語など、ルールがある。
これは、統辞論という。
また、「ご冥福」とか「疲れる」といった言葉の意味、意味の広がりがある。
これを意味論という。
そして、誰が、どういう文脈で言うかということも、言葉では大事。
これを語用論という。
欽ちゃんの話を理解するには、統辞論、意味論だけではだめなんだ。
親子関係や、貧乏でも、自分の境遇より、息子の将来を考えて言葉づかいを教えるという文脈を理解できないと、欽ちゃんの話は理解できない。
最初に言ったオシムの言葉も、彼が日本のサッカー監督で、弱小国だった日本サッカーの選手の考え方を変えた人物だと知っているから、その言葉の重さを感じられるんだな。
・・・・
言葉、で思い出すのの2つ目は紀貫之だな。
紀貫之は、平安時代の初期に、古今和歌集の「仮名序」を書いた。
■ やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
「心」は曖昧な言葉だ。
でも、その「心」から、もちろん、文法も意味も生まれただろう。
でも、それだけではないんだ。
人を愛する気持ち、悲しむ気持ち、は、誰かが何かの文脈で思い描く。
そういった思いがあるから言葉になっていくんだ。
だから紀貫之の、この言葉って、統辞論、意味論、語用論のすべてをひと言で言い切ってるんだ。
オシムの言葉、欽ちゃんの言葉を見て、いいなあって思うヤツは、言葉だけを見ていない。
その言葉の周辺の文脈や、オシム、萩本欽一という人間を見ているんだ。
・・・
おっと、今日はもっと軽くよもやま話しようと思ったんだが、オシム監督の訃報があったんで、また理屈っぽくなったなあ(笑)
メンゴメンゴ(笑)
しめっぽい感じじゃなく、オシム監督が日本に来てくれてありがとうって気持ちで、曲かけようかな。
『風になりたい』ってのはどうだ?
■ 大きな帆を立てて あなたの手を引いて
荒れ狂う波にもまれ 今すぐ風になりたい
天国じゃなくても 楽園じゃなくても
あなたに逢えた幸せ 感じて風になりたい
生まれてきたことを 幸せに感じる
かっこわるくたっていい あなたと風になりたい
「お疲れ様」って心の中で思いながら、オシムと一緒に乾杯しようか。