空谷
日々感じたことやエッセイ的なものを、ゆる~く書いています。
小学校5年生の時はとくに覚えていません。 小学校6年生の時は、 同級生に、ランドセルを勝手に開けられたりしたので 生きていても楽しいこともないし 死のうと思いました。 その時たまに同級生の付き添いで行っていた 保健室の先生に 辛すぎて耐えられず、泣きながら話しました。 そしたら先生が抱きしめてくれました。 それが、私が生まれて初めて 人に抱きしめられた瞬間でした。 先生のおかげで 私は死ぬのをやめることができました。
今思うと、友達がほとんどいなかった私には、自然が友達でした。 自然は、なにも言わずにそこにいて私を癒してくれる。 そんな自然 花や木、土や草、空や海が大好きです。
私が子どもの頃は とにかく友達が多いほうがいいという 世間の雰囲気があったように思います。 今は、ゲームやネットが普及して ひとりで外食したり、ひとりで行動することにも 抵抗が少なくなってきた世の中ですね。 ほとんど友達のいない私には 楽な世の中で生きられて幸せを感じています。 昔は 「私友達がいない。」 なんて言うと引かれるから言えなかったけど、 今なら 「私友達いないんだよ。」って言えます。
小学校高学年くらいから、私はたまに父親の財布からお金を盗みました。 お札を盗むとバレると思ったので、小銭(主に100円玉)ですが。 大人になってから、愛情が欲しかったためにやっていたことだと分かりました。 父親は知っていたのか分かりませんが、何も言いませんでした。 怒ることも面倒だったのかもしれません。 そこまで子どもに興味がなかったからかもしれません。
私には無関係だと思っていた トラウマというものを持っていたと気付いてしまいました。 気付くことがまず良くなるための第一歩だろうけど、 本音は気付きたくなかった。 なにか生きづらいと思いながらも 知らないまま生きていた方が幸せだったのかもしれません。
親が毒親だった場合、そう思う子どもも多い。 私も 早く死んでとは思わなかったけど、 父親が死んでくれてホッとしたところもあったと思います。 やっと理不尽に怒られなくてすむ。 馬鹿にされなくてすむ。 自分だけじゃなくて、人への批判も聞かなくてすむ。 本当は親と一緒に住みたくなかったけど、いろいろな理由があって仕方がなかった。 普通の人なら、 「そんなに嫌なら独立して暮らせばいいのに。」 と思うでしょうが、親が毒親の場合そんなに簡単ではないんです。 幼い頃か
あなたは今、自分が孤独で 世界に一人だけ取り残されたような気持でいるでしょう。 大丈夫、私も一人。 ずっとあなたを見ていたよ。 気付いて、一人じゃないことを。 あなたにお父さん、お母さんはいないかもしれない。 いたとしても仕事が忙しかったり、 自分のことに精いっぱいで話を聞いてくれないかもしれない。 機嫌が悪い時は、あなたを叩くこともあるかもしれない。 友達のお父さんやお母さんを見て、 なんで私の親はこんななんだろう と悲しくなる時もあるでしょう。 家族で出かけたり
小学校一年生の時から ずっと家に一人で留守番をさせた父親。 アメリカなら犯罪で逮捕されます。 日本では罪に問われませんが 外国では児童虐待で逮捕されることを 父親はしていました。 いっそのこと父親が逮捕されて 施設か伯母の所へ行きたかった。 でも日本にそんな制度はなく まだ幼くて何もできない私は そこにいるしかなかった。 そこが一番の居場所なんだと思っていました。
小学校3.4年生の時にはいじめられ、 親に言っても無駄だと思いながら 辛すぎて泣けてきて話すことになったけど、 案の定話しても何もしてくれず やっぱり父親は何もしてくれないんだと それから一切期待することをやめました。 自分から会話することもやめました。 父は自分が話したい時、一方的に話してくるけど 父と会話していて、笑い合った記憶は一度もありません。
小学校一年生の時 夜ご飯を親戚の家で食べたあと 何もすることがないので算数の勉強をやっていた。 おかげで算数の成績が良かった。 でも二年生になると 夜ご飯を食べてから寝るまでの時間 近くにある自分の家に帰っていいことになり テレビを見ていて寝る時間に遅れて よく怒られた。 ちょうど夜8時頃面白い番組が多かったからだ。 続く
それから 父親が仕事の時は親戚の家を転々と預けられた。 母が亡くなってからの 四歳から六歳くらいまで記憶がない。 小学校の時は伯父の家に預けられたけど、 自分の祖父くらい歳の離れている伯父の家には 居心地が悪かった。 祖父母は亡くなっていていない。 従兄弟とは親子くらい歳が離れていて 寝る前に歯磨きをしていたら 「水がもったいないからやめろ」 と言われた。 伯父夫婦と従兄弟夫婦と食べるカレーは辛くて 涙と鼻水を我慢しながら 水で流し込んだ。 母が
母が亡くなり、 葬儀の時 私は覚えていませんが 「お母さんをあんな箱に入れちゃだめ!」 と言ったそうです。 タクシー運転手の父親と四歳になったばかりの娘。 父の親戚は、 一人で育てられないから 施設に預けたほうがいいと言ったけど 可哀想だから と自分のところに置いた。 私にとっては父親といるほうが よほど可哀想な人生だった。 施設に預けられたほうが幸せだった… 可哀想だと子どもを手放さなかったのは 自分が寂しくて 子どもに寂しさを埋めてもらうた
母はとても優しい人だったそうです。 そうじゃなければ、 生活費を渡さない夫と三〜四年間も 一緒にいられませんよね。 母は亡くなる時何を思ったのでしょう。 私なら絶対に夫を許さない。 愛する我が子を 自分がこの世から居なくなると分かっていて 引き離した 夫を許さない。 母の気持ちを思うと 涙が溢れてきます。 続く。
自分が手遅れだと思わなかった母は 必死に癌と闘ってくれていました。 私が大人になってから伯母に 「母は手紙のひとつでも書いてくれなかったんですか?」 と聞いた時、伯母は ごめんね。妹は必死になって生きようとしていて 闘っていて、そこまでできなかった… と言いました。 たしかに、余命宣告もしない時代に なぜ娘に手紙を書くのか? 母は疑問に思うかもしれません。 私に会うために生きようと 必死に闘ってくれていた母には、 娘に手紙を書いてあげて なんて言え
父に病院へ連れて行ってもらえない母は、 体調が悪く 耐えきれず 自分で車を4時間ほど運転し 私も連れて姉の所へ行きました。 そして病院へ行き そのまま入院しました。 それから 三歳の私は伯母のお世話になり 母も入院中、伯母のお世話になりました。 母の癌が手遅れだと分かり 母には告知しませんでした。 そういう時代でした。 母は私のために必死に、 一生懸命に癌と闘ってくれた。 病院に来た父は 伯母が私を 「引き取って育てる。」 と言ってくれた時
私が三歳の時に 母の体調が悪くなり 家で吐いたりしていたそうです。 三歳の娘を 一緒に連れて病院には行けないので 父に、 「病院に連れて行ってほしい。」 とお願いしても 父は連れていきませんでした。 車で10分もかからない距離なのに。 タクシー運転手が車で10分なんて 簡単なことなのに。 いくら生活費を渡さない夫でも、 妻の体調が悪くなれば 病院に連れて行ってあげてもいいと思いますが… 母は他県から嫁に来たので 三歳の娘を頼んで見てもらう人も居