未来の予感 【数年前のarchive #2】

自分が発した言葉に心を奪われる時がある。私は昔から「考えて喋る」というのがひどく苦手だった。ここ数年でそれがもっと加速しているような気がしているけれど、悪いことばかりじゃないなと思う。

考える前に発言しているから、自分の言葉との思わぬ出会いがあるのだ。ごく稀に、心が奪われるほどの出会いがある。そういう言葉と出くわすと、自分の子供のように感じて、大切にしたくなる。人は喋る生き物で、私は喋るたびに出会いがある。だから、人生を2倍楽しむことができるのだ。
これは物をよく考えてる奴からしたら、目から鱗の人生の楽しみ方だろう。これについてはニーチェも同じようなことを言っている。

「記憶力の良い人は、過去の思索にとらわれてしまうため、思索者としては不適格だ。」

ニーチェは生まれつき記憶力が悪かった。だから、“同じ書物を毎回新鮮な気持ちで読むことができる“らしい。これも人生が2倍くらいは楽しくなるだろう。ちなみに私は記憶力も悪いから、人よりも4倍楽しい人生になる計算である。

タイトルの「未来の予感」は、最近ハッとした自分言葉の一つである。

私が前のサービスをやっていた頃は、「~であるべき」というビジョンが全てだった。今の世の中はこれが足りなくて、これが課題だから、こうであるべき。

ビジョンが事業をやる唯一の意味だと思っていたし、それがない起業家は滅んでしまえとも思っていた。実現したい未来は鮮やかに語れて、私の中にはそれに至るまでの道が明確に広がっていた。

でもその姿勢は、思考とやることをクリアにしてくれる代わりに、色んな物を見えなくしてしまう。ビジョンが自分の解釈の物差しの全てになるから、物差しで計れなかったものは認知できない。

書籍『ビジョナリーカンパニー』が流行ったのはほんの十数年前で、それより前は、ビジョンと起業はセットではなかった。でも、浅はかな私はそれが全てだと思い込んだ。私だけではなく、社会起業家のコミュニティなんかでも、まずビジョンや実現したいことから考える。

それは一側面では正しいかもしれないけれど、代わりに見えなくなるものは少なくない。

だから、事業をやる姿勢は、自分や仲間達が面白がれれば何でも良い、という曖昧なものでいいんじゃないか。

~であるべきってのは確かに未来を見ている。でもそれは、「今」の自分から想像のつく可能性の一つでしかない。でも世の中はもっと流れが早くて、ちょっと前に掲げたビジョンなんか古臭く見えるほど、新しいものの香りがそこらじゅうから漂ってくる。

面白いってのは、「今」の感性だ。でもそれは、未来を断定しない。
これは、目には見えない、今は見通せない、無数の未来の予感なのである。

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