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形にしきれないので下書きを。進んで入稿、11月なかば。

少し、遅くなりました。

遅くなったので、他の皆さんの話を読んでから書けたのですが、意外と前向きな人が多いようで勝手に感心していました。

つまりは、後ろ向きな私が前に進むための話を綴るということです。ゲイとして。
前回に書いたように、自己課題の話。

と、その前に今の私。平成改め令和元年、5月の30日。

これまでに紆余曲折を経て天職と思えるものを見つけ、その資格を得るために専門学校に通わせていただいています。人そのもの、そして人の心に向き合う分野に足を踏み入れ、勉強が楽しくてたまらない時もありしんどい時もある。そこはまあ自分で選んだ道で、これからもきっと好きで選んでいく道です。苦楽有り、塞ぎ込んで死にたくてたまらない日々からきっと結果全てを肯定できるところまで身ひとつで来れたので、自分を褒め続けていきたいところです。もちろん沢山お世話になった方々への感謝も忘れず。
身ひとつという選択は今、私自身の首を絞めています。これまでの学びとしてある「他人も環境も変えられないのだから自分自身にフィードバックしていく」という考え方は、価値観の揺らぎやすい私の心とは相性が悪い気もします。けれど、これまでの選択もこれからの選択も、自業自得できっと結果オーライ。生き様を築いて行きたいところです。
現状としては満身創痍、結構崖っぷちに居て、とても私の望む生活とは言えないけれど、遊ぶ余裕もほとんど無いけれど、これはこれで。きっと良い味わいを醸すのかななんて考えながら喚き受け入れていくつもりです。

つもり。そう、つもりはつもりで、つもりでしかない時もありまして、それはそれで人らしいのでしょうか。相変わらず死にたいは頻繁に訪れるし、完璧な選択なんて出来ません(そもそも完璧な選択なんて無いのでしょうけれども。)。人を傷つけることも、損をすることも、迷惑をかけることも頻繁にありますが、持ちつ持たれつ生きていくんだと考えています。これまでの語りを振り返ると、きっと、精神の分野に強い人には私のおかしなところが見えていたりするのでしょう。完璧な人は居なくて、それでもみんな特別だなんて言うつもりですが、私はそんな私が結構嫌いでまあまあ好き。完璧が無いのだからどこで狂ったのかなんて探るつもりはありませんが、少しばかり俯いている自己肯定感は長い間の課題です。

そこに付随する対人関係の築き方も私の課題です。報告・連絡・相談とはよく言ったもので、資本主義社会の中で働き生きていくには重要であることくらいは身をもって学んできました。実習に行く機会があるのですが、与えられた課題をこなすことと責任を持つこと、学校の言いつけを守ることと、人を煩わせないことの狭間で、相談や報告をする事に躊躇してしまう場面が多くあります。私が話し掛ける事で手間取らせてしまうのではないかと。というのは建前で、きっと本当はしなくてもいい事はしたくないと考えている。実習場面に限らず、苦しい苦しいと嘆く事柄に関しても。
前述の選択の話のように、そしてこれまで綴ってきた事を含めて生きることが苦しい場面というものは多く顔を出すように感じます。話を聞いてほしい、それだけでいいけれど。あなたの考えを教えてほしい、それだけで充分だけれども。言葉を介してしか伝えられない中ではそれさえも手間と暇が必要で、更には思わぬところで傷ついたり傷つけたりもしてしまう。それならば、それならば一人耐えて時間に任せてしまおうと考えてしまいます。言葉を飲み込むのです。機会を無駄にしてしまう。
幸いなことに、掬い上げてはくれないものの、言葉少なく肯定をしてくれる友人が一人、もとい二人います。愛しています。ただ、肯定し否定する、受け入れてひっくり返す癖の強い私の思考では、その友人さえも信じられずにいます。私自身の価値観さえも信じられないのですから。交友関係は広い方がいい。無闇矢鱈に人付き合い多くあるよりは、少なくても心通う友が一人いれば充分。本当に?なんて。
これは当然のように恋人と呼ばれる関係にも当てはまります。あなたが好きだけれども、この感情は盲信か依存か本物か。あなたを信じたいけれど信じてしまってもいいものか。「恋はタイミング」と言われるように唯一無二の縁だけれども、世界は貴方と私だけではないよね。なんて考えるわけです。


人は皆、少しおかしくてそれぞれに特別。

本当に?

恩師から散々言われてきたことは、全て文脈の上で事象が成り立つので多角的に物事を見ること。すると否定していい事は無いはずで、権利の主張は義務を果たした上で行うべきであるという事。べき論。
言葉を受け、選択し解釈をし、主観という形で考えとなるので、当然のように恩師の意図と異なる部分があるのでしょうが、私はそう受け止めています。べき論は良くないとも言われていますが。


さて、その中で私の選択は。
世界平和を望む幸福至上主義者なので、それでも、それこそ生き様として、面倒な事も幸せの為にと選びたいです。

ただそこにある世界の中で、人が社会を築く為に選択してきた事柄の、統計的な傾向をきっと倫理と呼び、常識と呼ぶのでしょう。そしてそれが民主主義というものでしょうか。

酒にタバコにギャンブルに、カナダで合法化された大麻、蔓延る痴情。
お酒を飲んで仕事をする文化があるように、同性愛が病気では無いとされたように、正しいとか正しく無いとかそんな土俵は元々なくて、人々はどんな選択をするのかにかかっているのかなと考えています。
元彼は、「もしもクスリをすることがあれば俺も呼んでよ」なんて言ってきました。違法で背徳的でアブノーマルな行為に心を燃やす人々に混ざる事も容易にできるのでしょう。

清く正しく良い子であれ、なんて言われるけれどそうは思わず。良い子という概念は、きっと都合の良い子で、できる事なら楽をしたいし、面倒なことはしたくない。今だけ、自分だけ、金だけ。
人はどうして楽をしたいと思うのでしょうか。
そして、どうして私はそれを嫌だと否定するのでしょうか


心と言葉にも課題。
キャパシティもそこまで大きくなくて、ダブスタにパニックになる事も多々あり。訓練次第でどうとでもなるのか、はたまた私の能力の限界か。
知らない事や慣れないことに拒否反応を示すのは人として当然でもあるけれど、イレギュラーだらけの人付き合いの中で、磨かれていない心と言葉は批判的で攻撃的になってしまうのです。
我儘で自分の事しか考えられない場面も多々あり、沢山のトラウマと結びつけ抑圧してしまいます。


モテる容姿でもなければ、群を抜いた何かがあるわけでも無い。セックスもそこまで好きでは無いけれど、背徳感に興奮することも、欲情することもある。仕方ないと身体に悪いこともしてしまうけれど。
それでも何かを積み重ね。
幸せを目指し、優しさを選び、好きをかき集め。
傷つけられることも悔しさを感じることも、羨ましく思うことも心がとち狂って自己顕示欲が爆発することも、人を傷つけることだってあるけれど、死を選びきれないのだから、それぞれに特別な人間の不完全な社会で生きていく。



世界はきっと美しい地獄で、きっとどこまでもそれぞれの主観でしか無いのでしょう。
前に進んで新時代。平成31年、改め令和元年。
期待を寄せて希望を抱き、努力を重ねて生き様を刻む。
出来ることなら楽をしたいと思うけれど、否定はしたくないし攻撃もしたくない。

どこまで行けるだろうか。
好きも嫌いもあるけれど。
信仰さえも胡散臭くて、とても信じられるものなんて無いけれど。

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