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他者の痛みを知ること


当時は小学校3年生で地震も放射能も怖かったけど、お母さんが守ってくれた。

『お母さんは私にマスクをさせて、お弁当を持たせて、プールも外での体育もさせなかった。』

それがいいんだと思ってた。多分お母さんからも理由を説明されたんだと思うけど、素直にうんうん聞けるような子どもじゃなかったから、お母さんの行動を見て分かった。焦ってた。お母さんだけ。
自分の小学校の校長に直談判している母親なんてそういない。
ちょっと恥ずかしかったけど、なんか面白かった。落ち込んでる姿をあまり見せなかった。

その他にも、肌を出さないためにラッシュガードを着けて登校したり、雨が降っている日は迎えが来たり、味噌汁に竹墨が入ってたり(真っ黒)、大好きなポテトチップスは体の錆になるからと食べれなくなったりした。

そんなこんなで私の身体はお母さんにより、放射能から守られて育った。

ある日、何年生か覚えてないけど雪が降った日があった。
私が住んでいるいわき市というところはなかなか雪が降らなくて、雪が降るとみんなではしゃいだ。当時、私以外も外での体育は禁止されていたから雪遊びはしなかったけど、帰りに降ってくる雪を口で受け止めたりして遊んでいた。
はしゃぎながら帰っていると、お母さんの車とすれ違った。

迎えに来たんだ、雪が降ったから。

「なんで私たちが雪遊びをしただけでこんなに機嫌が悪くなるんだろう」

その理由は勿論分かっていた。分かっていたけど、分からないふりをした。

5年生になり、今まで学年に私ともう一人のふたりだけだった放射能を気にしている母親の子どもは、やがて私ひとりになり、完全に孤立していた。
別に給食を食べないことが悪いみたいな雰囲気は一切なかった、子どもたちの中では。

その空間にいる大人がそれを良く思わなかった。

完全な孤独に耐えられなかった私は給食を食べはじめ、体育の授業にも参加するようになった。
みんなと同じようにするのって、こんなにも楽しいものなんだと感じた。
もう「この世界で自分ひとり」なんて思い、ごめんだ。

それでも牛乳は飲まずにいた。福島のだから。意外と知られていない、というか言ったことが無かったけど牛乳を飲まない生徒は割といた。クラスに4人ぐらい。
アレルギーだったかもしれないし、ひとりひとりの理由は覚えていない。

中学生になった。私は正真正銘の普通になった。

部活は陸上部に入った。

中学は割とゆるくて、ちゃんとした紙を提出しなくても牛乳を飲まないことができた。その時は「なんか味が嫌い」って言ってた気がする。

でも私の分の牛乳は毎日届くわけで、自分の意思次第で飲めるということでもあった。

夏なんかは結構飲んでた。喉乾くし、実際は牛乳なんてしばらく飲んで無かったから、禁断症状かわからないけどなんかめちゃくちゃ美味しかった。

小学校から一緒だったクラスの男子が給食当番だった時、「こいつの机には置かなくていいから」と他の子に説明していた。
そういう鈍感さにいちいち傷つく。

結局中学校には行かなくなった。
別の面での「普通」に従わないでいたら、いつの間にか居場所がなくなっていた。

別にいいし。むしろあの超長いスカートを履かなくていいとか、7時55分ギリギリに走って学校に行かなくていいとか、修学旅行の班決めがどうこうとかそういうものから解放されて嬉しかった。周りと馴染めないことに焦っていなかった。

『普通』ってなんだ。

人それぞれの考えがあると思うけど私の中では、
ファッションとか音楽とか髪型とか、そういうものはそれぞれ好きにやればいいし、それが理由で仲間外れになったとしても、別の場所に行けば必ず仲間がいることを知っている。

でも牛乳を飲まないことでみんなと別けられるとか、プールの授業でテストに合格した話に混ざれなかったり、学校という極端に狭いコミュニティの中で浮くことは嫌だった。簡単に別の場所になんて行けない。

普通が嫌なのか普通でいたいのか分かんないって思うかもしれない。
矛盾してるかなとか思ったりすることもあるけど、そのことに関しては気にしてない。私の中でそれとこれとは別なんだ。

「あの時給食食べなくて良かったね」とか、簡単に言っていい言葉ではない。
勿論その子によるけど、身体は守られたけど心は守られなかった。

お母さんを傷つけるつもりは全くないし、「子どもたちに福島のものを食べさせて、復興をアピールしよう。風評被害を打破しよう。」という方針にした国の責任だと思う。

みんなの給食が守られていたら、私の心が傷つくことはなかった。
何気ない一言で誰かを傷つけているように、誰も予想していなかったところで私も傷ついている。

それは今回はぴフェスに参加して、演劇プロジェクトに参加して初めて気づいた。

今まで、原発事故のことをどこか考えないようにしていた。
小学校3年生だったし何の感情もなかった、別に地元愛なんてない、どうせ将来日本に居ないし。そんな風に言っていた。

でも、本当は海が好きで、アスレチックで遊ぶのが好きで、Jヴィレッジも楽しかった。

「ああ福島」を聴いて涙が出るなんて思ってなかった。

実は私は普通じゃないことが怖いなんて、知らなかった。

原発事故がなかったら、放射能がなかったら違ってたか。今まで心の片隅でずっと自分に問いかけていた。そして答えを出さないようにしていた。
それはなぜか、

私も『良い子』を演じていたんだ。

政治に関心を持つようになったとか、目を覚ましたとか、原発事故がきっかけで変わった人々がたくさんいる。

自分にとってはプラスにならなかった原発事故だけど、どこかでプラスになった人がいる。私は変に気を遣って原発事故によって変わった日常を批判することができなかった。

自己の解放は大事だ。考えてるだけじゃ何も変わらないこと、身をもって体験した2日間だった。

そして、私は原発に反対する。

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