女、36歳、家を買う。
今の住まいを購入したのは一目惚れに近い衝動で、だけどぞっこんで好きになっちゃったんだからもう仕方ないかと思っている。
不動産を買う、ということは、人生を決める、ということだ。
少なくとも、私にとってはそうだった。
大好きな親しみある土地に、幼少の頃からある、趣ある佇まい。
そこに自分の拠り所がある。
ただそれだけ。それだけで、心底安らぐ。
離婚して正式にフリーになって、36歳。
若くはないけど、まだ出産を望める年齢。
これから結婚するかもしれないし、子どもを産むかもしれないと、今後の可能性を広く捉えれば捉えるほどに、「身軽に動ける」ということの価値が上がっていく。
身軽さは、移りやすいという物理的なことや、手続き上のたやすさに加え、自由に使える金銭の多さも重要な要素だ。
かくいう私も離婚直後はそういう「無限じゃないけどまだ広がってるっぽい可能性」みたいなものに縛られて、逆に閉塞感の中に佇んでいた。
もっと言えば、離婚直前からやたらと「まだ諦めちゃだめ」という謎の圧力があちらこちらからあって、その大前提が「結婚こそが人生の花」という価値観であることは確かで。
同意しかねる旗色を気にしないように受け流しながらも、その一色に侵された現代の大草原を見下ろして、心底嫌気がさしていた。
結婚をする、ということは、自己決定したような錯覚に陥りやすい。
逆に結婚をしない、という判断は自己決定した、と確信を持つことが難しいのではないか。
たとえいろんなことに流された結果であったとしても、変化が有る以上一定の判断をしていると勘違いしやすく、変化がないという状態の維持は相当の意識化がない限り、自分が選んだのだという腑に落ちた感覚は得難いからだろう。
そういう中では、不動産を購入する、という大きな判断は、同時に「結婚を今後しない、ということを選んだ」ことの裏付けとなる出来事だった。
否、結婚、では無いのかもしれない。
これは「自立し自律した人生を生きる」宣言であり、「共依存への明確なNO」である。
私にとって未だ結婚は一種の共依存体という見方しかできていないのだ。
自立した人生の中で、自立した誰かとの出会いを通じ、もしかすると「自立したもの同士の信頼と尊重による結婚」が可能となる日が来るかもしれないが。
少なくとも、今はその時ではなさそうなので、当面私はこの愛する家で愛するものに囲まれながら生活を楽しんでいたいと思う。