素材のはなし。
畑をやってる彼の友だちから、バターナッツかぼちゃをいただいた。
以前、あの瓢箪みたいな形と謎にお洒落な名前に興味があって試しに買ってみたのだけど、緑色のごつごつした皮のかぼちゃと同じように調理して、盛大に失敗。
水分量や皮の硬さなど、普段慣れ親しんだかぼちゃと扱いが全然違うことを思い知った。
今回は、折角いただいたもの。
美味しくいただきたい。
以前、撃沈しながらも、半分残ったかぼちゃを、レシピを調べてポタージュにしたらそこそこ美味しかったから、またそれにしようかと思いつつ。…そもそもこの子の素材としての味をよくわかってないんだよね、と思い、今回は思い切ってバターナッツかぼちゃだけをピュレにして、調味料は何も入れずに豆乳と割っただけのシンプルポタージュにした。
結果。
久しぶりに、ぅうんんんんんめえぇぇ…って、1人なのに声出ちゃうくらいにめっっっっちゃ美味しくて。
あー、これはあれと合うなぁ…こうしても美味しそう…
と、次々に試したい組み合わせが湧いてくる。
レシピ通りに作ったポタージュは確かに「そこそこ美味しかった」けど、バターナッツかぼちゃ本来の味がわかっていなかったから、「これで合ってるのかな?」という一抹の疑念が残る食卓だった。
今回は、食卓が「楽しい」。
情報化社会の中で、私たちはわからないと調べて、事前に失敗を踏まないようにする。それが「正解」だと教え込まれているし、むしろそうしないと「ちゃんと考えなかった」ことについて責められる。
だけど、結局のところ本質的な部分を「わかる」ためには、自分の感覚で直に触れるのが一番早い。…というか、そうしないと「掴めない」。
わからないことに対して体当たりで行ってみることについて、私たちはどんどん寛容でなくなっていっていて、結果として物事の本質からどんどん離れていってしまっていることは、決して「食卓」だけの問題ではないだろう。
楽しむことも、悲しむことも、愛することも、憎むことも、本当は「生きる」こと全部ひっくるめて、「正解」も「誤り」もない感性的なものだ。
だけど、感受性を理屈に押し込めながら、それでも理性的になんてなれないままで、私たちは今日もこのままならない世界で息苦しく呼吸していく。
そんなこと思いながら、残ったポタージュの半分をカップに注いでラップする。
彼が夜勤から帰ったら、「「美味しい」を、分け合いっこしたいの」という甘美な言葉を纏った、「嫁からの圧」戦線が、我が家で幕を開けるんだろう。
ただそれだけの話と、静かな部屋。