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2年ぶりに、結婚した。
夏の真っ只中に始まって、夏の真っ只中に終わった、1回目の結婚生活だった。
始まりの夏から十数年の歳月の間に、私は学生から母になり、社会人になり、1人の女性となった。
決してマジョリティをなぞる人生ではなかったけれど、それはそれでどうしようもなく自我を持たざるを得ず、そこに迷いはなかった。迷っていたら、片っ端から大切なものを失いそうで、そうあらねばならなかったのかもしれない。
離婚して、子どもたちから離れ、1人となって、それはそれで、やはりこの日本の「大多数」から外れた生き方だったけれど、守るべき他者のない中で、純粋な1人の女性として行きていくことの難しさをひしひしと感じていた、2年前の秋だった。
モラトリアムなんてもう辿りたくないのに、幾度となく「自分」を定義つけてはしっくりくるものからかけ離れ、積み上げた砂像のような自我をまたばらばらと崩してみたり。
秋は冬になり、やがて花が咲き、気がつけば、季節が巡っていた。
そんな作業を繰り返して、1人で十分、幸せに生きられることを知った頃、今の夫と出会った。
1年前の秋、まだ、暑さが残る頃だった。
結婚なんて、考えもしなかった始まりだったけれど、特別なことはしなくても、一緒にいる時間がただ心地よく穏やかなもので、都内で働く私と、地方で働く彼と、片道3時間かけて行き来をして、穏やかな安心を充足させるように過ごしていた。
なんとなくこれからの2人の関係のあり方を話すようになり、家族になることを意識するようになっていったけれど、37の私は結婚に踏み切るには色んなことを知りすぎていて、26の彼は強引に結婚を踏み切るには優しすぎた。
何よりも、「今まで子どもとか欲しいって思ったことなかったけど、こんなに好きな人との間に子どもが生まれたら、本当に幸せなんだろうなって思う」彼の言葉と、確かにとても幸せだった子どもたちとの日々。それに対して私の年齢では積極的に子どもを望んでも1年後の妊娠率は約6割だった。
「子どもを授からなくても、2人一緒にいられればいい」という言葉は本心だとわかっていたが、それでも彼の配慮と思慮はきっとパートナーと子どもを幸せにするものだったので、私との結婚が彼のその可能性を狭めるような気がしてなんとなく、仕事を言い訳に、はぐらかしていた。
せめて週末だけでも一緒に暮らそうか、と話し始めた頃、彼が入院した。
最初は検査入院だったけれど、彼の容体も好転しないまま原因がわからず徐々にその期間は長期化していった。
総合病院、当然面会は制限されており、改めてどんなに大切に想っても私と彼は「他人」なのだと痛感した。
このまま、会えなくなるのではないか、ということが頭をよぎるたびに怖くなった。同時に、もしこのまま会えなくなってしまったとしたら、果たしてこれまでの間に十分彼を大切にできていたと言えるのだろうかと自問する度に、後悔と自責の念が込み上げた。
誰かを本気で大切にするということは、本当はとても勇気のあることだ。
彼との日々を振り返ると、彼はいつだって、私との関係を一つ一つ深める時は、震えながら自分の気持ちを伝え、その上で私の気持ちも聞いてくれていた。
失うことの恐れが全くないようにして、自分自身を賭けることなどできない。
その点、彼は、私よりずっとずっと勇敢で、そして誠実だった。
一度は怖くて遠ざけた、愛するということと信じるということ。
彼にずっと遅ればせながら、私の覚悟が固まった頃、舞い込んできた知らせを彼に届けた。
「お腹に赤ちゃんができました。パパになるよ、早く、元気になってね。」