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指輪にまつわるエトセトラ

結婚指輪がお店に届いたとの連絡を受け、色づく里山の木々の中を車で小一時間ほど走らせて隣県まで受け取りに行った。
今年は紅葉が例年より遅く、11月下旬に入ろうとしてようやく秋めいた山の様相に変わりつつある。

アクセサリーを普段つけない私たちは、婚約指輪を買うことはなかったけれど、なんとなく「結婚指輪はつけたいね」と話になった。
「べき」とかではなく、なんとなく2人でそういう話になって、誰に何を言われることもなく、自分たちの好きな指輪を2人で話しながら選ぶ。
「そういうものでしょう」と当たり前に思う人もいるかもしれないけれど、力を加えることも加えられることもなく、2人が家族になっていく過程をゆっくりと2人のペースで歩んでいけることは決して「当たり前」ではないと知っているから、こういう一つ一つの時間がとても幸せに感じる。

家庭を築いて行く時は、たくさんの「検討」と「決定」をしていく必要があって、その時にきちんと話し合ってお互いが一定の納得のもと進んでいけるかが夫婦の関係性を大きく左右すると思うのだけど、実際のところ「わかって」いてもそうできるかは全く別の問題だ。
私たちが、住まいも入籍も「段取りよく」とはいかなかったけど、お互いがお互いのペースで無理なく「いいね」を重ねながら穏やかに進んでこれたのは、2人のことは2人で話すという「境界線」と、色んな側面での「お互いの余裕」があってのことだったな、と振り返って、思う。

「境界線」。
結婚となると、「家族のことだから」良かれと、ユニットを形成する最小単位の夫婦外の「家族」が大いに口出しをしてくるもので、それにうんざりしたつぶやきが、町中に溢れかえっている。
核家族化が進んだのに、と言うべきか、むしろ核家族化が進んだからこそ、なのかわからないけれど、家族間のいざこざをよく聞くと、大抵「家族」の名の下に「過ぎた」ことをした結果と感じる出来事が多い。
それは「口を出し過ぎ」であったり、「気にし過ぎ」であったり色々で、いい塩梅で「放っておく」ことも「手を貸す」ことも下手くそだ。
本当は自分の負える責任の範囲で発言するものだと思うけれど、「意見を言っているだけ」と無責任に発言する人はあながち多い。
それが何故なのか、人間という生き物の歴史や心理的な背景から考察してみたりするけれど、結局のところ「今まさにそうであること」に変わりはないから、結局一緒にいて居心地の悪い面々とは「物理的に距離を取る」というもっとも安牌な境界線の引き方をしてことなきを得ている。というか、私はそうすることでしか他者に優しくあれるだけの自分自身の余裕を維持できない、小さな人間だ。

小さな人間なりにも、自分自身に余裕があると、自分の感じていることを素直に表現できるようになるし、相手の表現をきちんと受け止めることができるようになるもので。夫婦間でのいざこざが今のところないのは、そのバランスがお互いに取れているからなんだろうと思う。
話し合うにも、まずは余裕。お互いに目一杯な水を滴らせたコップを抱えてぶつかったら、あっさり水がこぼれてしまうように、自分の考えを伝えることは大切だけど、それ以前に相手の話を聴けるだけの余裕が必要なのだろう。

幸にして、結婚指輪は境界線の守られた中、2人の穏やかなやり取りでたどり着いたもので、それを身につけられることはとても光栄なことと感じる。
何より、お店を出る時からずっと指輪を嬉しそうにつけている彼を見ると、私もとても嬉しくなる。


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