「世界で最も住みやすいまち」には何があるのか。
2019年、夏。思ったより周りの友達が同じ期間で連休ではないので、いっそのことずっとやってみたかったひとり旅をしようと思い立ったのは7月末ごろ。
それから行き先を決めかねていた。友達と一緒に海外に行くときよりも、ああでもないこうでもないとむやみに悩み続けた。「ここがいい!」と一言端を発してくれる人が、自分の中にもいればなあ、なんて思う。
散々迷った結果、行き先はオーストラリア・メルボルンに。
きっかけは、Youtuber/バイリンガルのちかさんや、歌手/YeYeが短期的にメルボルンに住み、とても素敵な暮らしをしているように見えたこと。
お二人とも小さいお子さんの子育て中だけど、すごくのびのびした緑あふれる環境と、おしゃれで気取らないカフェとで、なんだかすごく過ごしやすそうだなと思っていた。
本屋さんで見つけた「メルボルン案内 たとえば、こんな歩き方」にも見事に心動かされ、メルボルン行きのチケットを夜な夜なポチッ。
それから2週間後の今、メルボルンのホテルでこれを書いている。
こちらに来てまだ丸2日も経っていないけれど、どこかに感じたことを書いておきたいほど、メルボルン×ひとり旅は性に合っているようだ。
「暮らしやすさ」の定義の仕方は、おそらく人それぞれなので、あくまで私が感じたことだけれど、メルボルンってこんなところだなと思ったことをつらつらと記録しておく。
・わかりやすい
・人との距離感がちょうどよい
・多文化が当たり前
・官公庁ががんばっている
・食べ物のおいしさの平均値が高い
・優先席が広い
・まちがコンパクト
・朝がはやい
とまあ、挙げればもっとある気もするが、さっと出てくるだけでもこんな感じ。簡単に補足していく。
わかりやすい
はじめてのひとり旅だし、英語だって学校で習う以上のスキルは取得していないのに、これまでほぼ迷わずに行動できている。
そこまで趣向を凝らしたサインや案内があるわけでもなく、シンプルに理解できるだけの情報をすっきり届けてくれる印象。
ついでにシティと呼ばれる中心街周辺は道が碁盤の目状になっているので、これもわかりやすさの一つになるとは思うのだけれど、なぜか私の場合、碁盤の目状は逆に勘違いしたまま全然違う方向に進んでいったりしてしまいがちで、Googleマップが欠かせない。
人との距離感がちょうどよい
オーストラリアって人が穏やかでみんなフレンドリーそう、というイメージをずっと持っていたけど、メルボルンは思ったよりそうでもない。それは、決して悪い意味ではなく、たとえばカフェの定員さんはすごくテキパキしているし、NYのように毎度のごとく「How are you doing?」と聞いてこない。
(典型的な日本人なので、「How are you doing?」と聞かれたときになんて返せばいいか毎回さっと出てこない。お店を出るときもまたしかり。「Have a nice day!」と言ってくれるのは嬉しいが、「You too.」すらどもるありさま、情けなし。)
必要以上に話しかけてこない、けど、何か聞いたら笑顔でいろいろ教えてくれるし、ハプニングには笑ってくれる。
何かを求められている緊張感がなく、自然でいられるというのが、本当の「穏やかさ」かもしれない。
多文化が当たり前
アジア系の人も多いとは聞いていたが、思った以上にたくさんいた。中国人、韓国人、インド人、その他東南アジア系の人、など、いろんな言葉が飛び交っていた。見た目で蔑視する様子は微塵もなく、それが当たり前の光景なんだろうとすぐに悟る。
私の住む福岡は最近、中国人や韓国人を中心にアジアからの観光客がとても増えて、天神あたりの道路には日本人より多いのではと思うほどたくさんいる。まだまだ慣れていないということもあるかもしれないけれど、道にあふれて大きな声で話している観光客を目の前にすると、暮らしにくくなってきたな〜なんて思ってしまうことも多々あるのが正直なところ。
もちろん、観光客と住民とではまた話が違うということもあるだろうが、それでも文化の多様性を受け入れていくにはどんなことが必要なのか、福岡とメルボルンの違いを感じて思った次第。
官公庁ががんばっている
中心街を回っているトラムは無料だし、「人生で一度は行ってみたい図書館」も誰でも使えるし、美術館も無料でいろいろ見れるし、公衆トイレは綺麗だし、雇用もたくさんありそう。
暮らしやすいまちと感じられるかどうかって結構その地域の自治体によるところがあるよなって、社会人になってから思うようになった。
特に交通機関の利便性や、文化やアートに接触できる環境づくりというのはそのまちに暮らす人々のためにも、常に最良の形を追究してほしいなと思っている。
という意味では、数年前にトラムを無料にしたメルボルンは、なかなかの先進都市で、どういう仕組みで成り立っているのか、知りたいところ。
食べ物のおいしさの平均値が高い
海外の食べ物には合う合わないがあると思うけれど、メルボルンには「はずれがない」気がする。どれも美味しい。
本屋さんに4軒ほど行ってみたが、「Food」や「Health」のコーナーがとても充実していた。ヘルシーな食事が普通になってきているメルボルンでは、人々の関心も高い状態が続いているのだろう。
カフェのまちとして有名なこのまちは、コーヒーが美味しいだけでなく、食べ物の美味しさも伴っていた。
優先席が広い
バス、トラム、電車、どれも優先席が十分にとってあって、人々もそこにはあまり座っていなかった。ベビーカーでも乗車しやすそうだし、バリアフリーというか、そういう配慮が施設にも人の行動にも行き届いているまちだなと思う。
まちがコンパクト
先ほどトラムが無料と書いたが、実際、トラムに乗らなくても、無料ゾーンのトラムの反対から反対へは歩くこともできる距離感で、私はまち歩きが好きなのでどちらかというと歩いている。
シティはビジネス街でもあり、買い物をする場所でもあり、観光する場所でもある。図書館、美術館、ガーデン(公園)などもそこにあるし、東京だと何時間も待ちそうなカフェがいたるところにあってすぐに入れる。
トラムで20分、30分行けば世界で3番目に古い動物園(古いなと感じることはなく、めちゃくちゃ面白かった)もあるし、海だってある。
1日でいろんなところにアクセスできて、その分、体験も経験も豊かになる。
日本でも「コンパクトシティ」と叫ばれて久しいが、自分にとってのそのメリットを体感できた気がする。
朝がはやい
カフェはたいてい7時からあいているし、複数あるマーケットも6時くらいからはじまる。だらだらと朝を過ごすのがもったいないなと感じるほど、まちが朝から楽しい。
その代わりに、夜はあまり長くない様子。冬だからというのもあるのかもしれないけれど、お店が閉まるのが結構早くて、18時、19時には閉まってしまう。飲めるお店も21時ごろまでだったり。
はやく帰路について、ゆっくり夜を過ごし、朝から活動する。そんな暮らしなのだろうな、と想像している。
*****
「世界で最も住みやすいまち」で、暮らすように旅してみる、というのが今回のひとり旅の目的だった。
ひとり旅の行き先として選んだことはおそらく正解な気がしていて、もちろん友達と来ても楽しい場所だと思うけれど、日々の暮らしは基本的にひとりであることを考えると、それと同じ前提でここに来れてよかったなと思う。
これまでに書いてきたような、用意すべき暮らしやすい環境という面での発見があったり、もっと自分事で内面的な暮らし方のヒントがあったりと、日本に帰って毎日を「つまらない」と吐かずに過ごしていくためのよい休暇になっていることは間違いない。
数年前にたまたま何かの雑誌の特集トビラに書いてあったこの言葉が、知らない世界へ出かけるたびにさらに強い共感とともに浮かんでくる。
「いろいろな場所を旅するたびに思うことは、それはいつも自分が生きている毎日と同じところにあって、そこにはまだ知らない日常があるだけだという、すごくシンプルだけど、忘れがちなことでした」
今の生活に飽きてしまったら、というか、おそらくこの1年くらいずっと何をやってもしっくりこない感じからすると今の生活にすでに飽きていると思うのだけれど、そんなときは、思い切ってメルボルンなのか、その他のまちなのか、海外に飛び出してみてもいいかもよ?なんて、ちょっと強気に思ったりもしている。
世界は自分の目の前がすべてだと思ってしまいがちだけれど、自分の知る日常なんてほんの一部で、無限にある選択肢の中で一つの生活の仕方でしかないということを、こうして違う場所に赴くことで思い出すことができる。
思い出すだけで満足できるのであればそれはそれで良いと思うし、時期が来たらいろんなところに出かければいいと思う。
思い出すだけで満足がいかなくなったら、そのときは生活をがらりと変えてみるというのでもいいのではないかと、はじめて少し背中を押された今回の旅。
そのとき、いつでも躊躇なく行動できるように、英語だけはしっかり会話できるようになりたい.....と(毎度のことだけど)改めて感じている。
これだけは、自分との約束にしておきたい。
とはいえ、まだまだ旅も道半ば。
明日も朝からこのまちを楽しむぞ。
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