小説『猫迷宮』32
部屋にもどって、一週間分はある新聞をつぎつぎにひろい読みした。一面のトップ記事などに興味はない。ローカルな記事とか、社会面にあるちょっとしたエピソードのような記事が好きだった。空き巣とか、ボヤ騒ぎとか、線路に置き石があったとか、とうていメジャーな記事にはならないありふれた事件にのなかにいつも心を惹かれる。いつだったか、台風で都内某所が浸水し、下水管からも水があふれた日に、自転車に乗った男性が、口をあけていたマンホールの中に落ちて行方不明になったという記事を読んだ。「マンホール男」の失踪だ。目撃者がいて、自転車ごと落下していったという談話があったが、果たしてそんな大きなマンホールがあるのだろうか。マンホール男が、その後どこかで発見されたという続報はなかった。どこかで遺体があがったのかもしれないが、記事にはしなかったのかもしない。マンホールにのみこまれて、ようやく這いだしたら、別の世界に出てしまったのかもしれない。などと空想したりする。なにやら、アングラ芝居の筋書きみたいだった。もちろん、この一週間にそんな記憶に残りそうな小事件は起きてはいなかった。さきほど、自分の新聞を盗んでいた女の話のほうが、ずっと奇妙で、得体が知れない。山尾素子と白井薫のどっちが本体なのか知らないけれど、その日が暮れて、九時を回った頃、その女がドアをたたいて訪ねてきたときにはさすがにぎょっとしたものだ。
「今晩は、すみません、山尾ですけど」
と、女ははっきりと表札どおりの名をいった。どう対応したものか。先刻会ったのは、白井薫という女のはずだった。
「えっ、白井さんじゃないんですか?」
事情を聞いていることをはっきりさせるために、わざとそういってみた。女は、すこしはっとしたようだった。
「あら」と、すこしだけ意外そうな声をだした。一瞬の間があいた。考えているらしい。
「あの人、すっかり話しちゃったのかしら」と、独り言のようにつづけた。
「なんか御用でしょうか」
「はい」
と、用事を思い出したらしく、じっとこちらをみつめた。
「あの、すみません。これまでの新聞代を弁償しようと思って」
「そのことは、白井さんに言いましたよ。もういいんです」
「ちょっと中にはいってもいいかしら。人に聞かれたくないし」
返事をするよりもさきに、山尾素子は、部屋にあがりこんできた。
「めんどうですね」と、言ってやる。
「すみません、自分たちでもわかっているつもりなんですが」
やはり複数の自分の話らしい。
「さっきぼくと話したのは白井さんですよね」
「そうみたいですね。そのときのことは、覚えてませんから。神尾さんに押し掛けられたってことだけ聞きました」
なんか、保護者のような口ぶりだ。明らかに性格がちがうようだった。
「あら、このアパート、ほんとに間取りがいっしょね」
部屋のなかをみまわして、そんなことをいっている。すこし掃除しておいてよかった。
「新聞代なんかいらないですよ」
きっぱりといってやった。セコイ男に見られたくなかったこともある。
「そうもいかないわ。ご迷惑をかけたのですし。子どものマンビキとはわけがちがいますもの」
「新聞をヌイていったのはあなたじゃないんですか?」
「わたしが? 白井薫がそういったのかしら」
「どっちにしたって、ひとつの体でしょ」
「むずかしい話にしないでくださらない。盗んだのは白井薫のほう。ずっとまえから、ちょくちょく物を盗むのよ。それに気がつくと、わたしがメゲてひきこもるから、それが狙いらしいの」
山尾素子のほうが、あけすけに物を言う性質らしかった。
「どちらがその、つまり、その体の持ち主なんですか?」
こんな機会もめったにないような気がしたので、こちらもあけすけにきいてやった。山尾素子はすこし考えこんでいる。
「うーん、たぶんあの人でしょうね。わたし、しばらくあの人の頭の中で眠っていたかんじなの。気がついたら、もうずいぶんあのひとの人生が進んでいたわ」
「じゃあ、生まれつきひとつのからだに魂がふたつはいってたってことですかね」
『昭和戯文集成』や『猫文書』で読みかじった知識だ。人が生まれるとき、体の中に魂がスッとはいってくるさまを描いた箇所がたしかあった。
「あら、いろいろ知ってらっしゃるのね。だから、白井さんが眼をつけたのかしら」
予想外のことをいってきた。
「知りませんよ。新聞をヌカれただけです」
「そうかしら、油断をするとツケこまれてよ」
当事者の発言とも思えない。
「ずいぶん無責任な言い方ですね」
こちらも言葉がキツクなった。
「しかたがないわ。戸籍上は白井薫なのだし、一日のほとんどの時間はあの人が支配しているんですもの。わたしは、ときどき、あの人が眠っているときに出てきて、不具合を修正するだけなのよ」
「不具合?」
「そ。あの人の服装のセンスとか、押しの弱さには呆れるわ。それに、このアパート選んだのあの人なのよ・・・・あっ、ごめんなさい、ひどく汚いって意味なんだけど」
とくに反論はしなかった。
「でも、表札は山尾さんでしたよね」
「そうよ、そこがあの人のズルイところ。男の人につきまとわれたことがあって、ここに引っ越すときに、ちやっかりわたしの名前を使いだしたの」
「女の独り暮らしは用心しないと」
「それはそうなんだけど、なにもわたしの名前をだすことないでしょう?」
「ちょっと待ってください。白井薫が戸籍に載っているのなら、あなたの山尾素子って名前はどこからきたのですかね」
「あら」と、女はすこし虚をつかれたような顔をした。
「それもそうね、いきなり十四歳で眼をさましたとき、わたし、自分が山尾素子だって知っていたの。それより前の記憶がないわね」
「じゃあ、あなたが後から入り込んだのじゃないですかね」
「そうかなあ。でも、どういうわけで?」
「どこかで、突然死んだんじゃないですか。そのとき、魂がとびだして、白井さんのなかに入ってしまったってこともありますよ」
すべて思いつきのデマカセだったが、相手はすこし納得したような顔をしている。魂なんてものがあるとしても、そんなに他人にのり移ることがあるものではないだろう。
「あなた変なヒトね。易者さんみたい」
「やめてくださいよ。山尾さんがいっていることが本当だとしたら、理屈ではそういうことになるって言いたかっただけです。精神科のお医者に診てもらったらいいですよ」
「そうね、そしたら白黒がつくかもね」
そうしたら、この山尾素子のほうが追い出される可能性が高いような気がしたが、そこは黙っていた。
「でもね、白井薫には、この山尾素子が必要なのよ」
「なぜですか?」
「これまでの付き合いでよくわかったの。あの人にすべてをまかせたら、とても悲惨な人生になっちゃいそうで、たまらないもの」
ずいぶんな言いようだった。悲惨だろうと、なんだろうと、自分のまねいた責任ではないか。他人の価値観で動かしていいわけがない。
「白井さんは苦しんでるみたいですよ。盗癖もストレスからじゃないのかな」
「そうねえ」と、山尾素子は、すこししんみりした。もうすこし言ってやりたかったが、初対面でそんな精神科の医者の言いそうな意見は控えることにした。すでにして、ずいぶんこの奇妙な会話につきあわされている。深入りしてしまいそうな気がした。
「神尾さんて、変わったかたですよね」
またしても、同じことを言われている。
「なにがですか」
「だって、こんな頭のオカシイヒトのするような話に真面目につきあってくださるんだもの」
「ひとつ聞いてもいいですか」
「なに?」
「白井さんと山尾さんとで話し合うことってないんですか?」
「えっ?・・・・ないわよ。一人が目覚めているときは、相手は眠ってるんだもの。そして、覚えのない現実が進んでいることに気がついて、また、あいつがやったのかって思うの」
「じゃあ、一部屋で顔をあわしたことのない同居人てことですか」
「うーん、どうかな。相手の気持ちみたいなものは伝わってくるの。あ、この気分や感情はわたしのものじゃないな、てわかるの。とっても違和感があるわね」
「今みたいに、ふたりで話し合ってみればいいのに」
「そうねえ、難しいなあ。それって、ふたりで白黒つけて、どちらかを消しちゃうってことでしょ?」
「というか、ふたりで一人になっちまえいいんじゃないの。ぼくなんか、いろいろなタイプの人間がひとつにまざっているような気がするけど。どれももこれも、みんな自分だって気がしますよ」
山尾素子は、黙りこんでしまった。なにか琴線にれることでもあったのか。
「なんだか、神尾さんとお話していると、夢を見ているような気がしてきたわ」
「夢なんじゃないですか。あれも、これも」
「どうしたらいいのかしら」
「ずっと眠ったらいいですよ。目覚めていたってろくなことがないんだから」
そこには実感があった。昔、母親が<ああ、人生寝るよりラクはなかりけりだよ>とつぶやいていたのを思い出した。そんなとき、そのまま目覚めないことが<死>てことなのかと、子ども心に思ったものだ。死ぬよりラクはなかりけり、か。
「なにかほかのことを考えていたわね」
山尾素子の眼が光った。
「いけませんか」
フッと笑っている。
「あの」と、急にしおらしい顔をになった。「神尾さん。また、話しにうかがってもいいかしら」
それには、きっぱりと言ってやった。
「だめですよ。お医者に行ってください。それに、ぼくはもうここから引っ越すんですから」
いつになく、突き放すような物言いだ。この女につきあっているヒマもないわけだし、それでなくとも捜しにいかねばならない人たちが多すぎる。
「あら」
と、山尾素子は、わかったのかそうでないのか、びっくりしたような声でそれだけ言った。
寝苦しい夜になった。
山尾素子が帰ったあとで、布団を延べ、扇風機を首振りにして横になった。 深夜になってから、今度は白井薫のほうが恨みごとを言いにやってくるのではないかと嫌な予感がしていた。一人の体のなかに二人の人格がいるというのは、いったいどんな感じなのだろう。ジキル博士とハイド氏みたいに、一方が犯罪者だったらたまらない。
まてよ、と思いあたったことがあった。稲葉峯生氏の文書のなかに、嘘かまことか、幻覚なのか、自分の体の中に一匹のケモノが棲んでいるいるというのがあったのだ。猫だ。身の内に潜んでいた猫が、ある夜のこと本性を現わし、その身も猫に変身して夜の町に走り出ていくというのだ。それはもう、精神の病というよりは、怪奇現象の部類だろう。いや、怪奇幻想小説の世界だ。猫になって夜の町を走りぬけていくときの気分はどんなものなのだろう。もはや人間らしい感覚は消え失せて、猫そのもになって走っていくのだろうか。・・・・そんなことを空想しているうちに、眠ってしまった。
浅い眠りのなかで夢を見ていた。
紅花舎の事務所に自分はいる。デスクに明かりがついているが、室内の明かりはすべて消えていた。いつもの泊まり込み仕事と変わりはない。変わりがあるとすれば、デスクの明かりが届かない事務所の隅に誰かが背をむけてうずくまっている。後ろ姿からすると、二十歳かそこらの青年だ。
「そこでなにしてる?」
こちらはイラだって、乱暴に問いかけていた。
「いつからそこにいる?」
相手がなにも言わないので、ますますじれったくなり、次々に質問を発するが、うずくまっている青年は顔をあげようともしない。
「おい!」
とうとうどなり声をあげてしまった。なにかほかのイラだちが、その見知らぬ青年にむかって吐き出されたかんじだった。
すると、青年は、ようやくこちらに気づいたみたいに、クルリと顔をむけた。
「えっ!」
と、驚いて息をのんだのは自分だった。そんな・・・・。
不安げにこちらをみつめているのは、十年もまえの自分自身だった。
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