Haruki Rheinhardt Amanuma
泉鏡花作品へのオマージュ(新作)
風呂につかりながら本を読む。ここ数年来のならいになってしまった。もともと鴉の行水みたようで、長風呂がすきではなかったのだが、加齢のせいか冬に体が冷えて思わぬ関節痛とか肩の痛みがでるようになった。さすれば、長湯につかって体をあたためようと思い、本を読んでいればしばらくはつかっていられるはずと思いついた。たいていは文庫本の古書で、一度や二度は湯船のなかに落としてページがふやけてしまったものもある。ところが、これがまた本の著者にはすまないが、読んでいるうちに、ふとした一節から、活字
人形つかいの夜 それは、私がまだ4,5歳の幼児であった頃のことだ。昭和30年代の初めである。私は父のひざの上に乗って夜の広場をみおろしていた。東京近郊の小都市の駅前広場に、ぎっしりと身動きならぬくらい人が集まっていた。街頭テレビという言葉がまだ生きていた時代のことである。 大人も子どもも、広場の中央にしつらえられた舞台にすいよせられるように立っていた。その光景が、今でも円形劇場にひしめく聴衆のように思えるのは、父が駅の階段かどこかの高い場所に陣どっていたからだろう。
天沼 春樹 ■ピグマリオンの末裔 人形とわたしたちの意識とのあいだに存在するひとつの関係、「抱く」ことと「抱かれる」こととは、人類史上の受動と能動の行為のあいだ往還の物語であったといえる。一個の人間としては、母親に抱かれる幼年期、愛または欲望のの対象物を抱き/ 抱かれる青年期、子をだく中年期、そして「病い」という死の先触れに抱かれる老年期といった様々な抱擁の位相、主体と客体の位相を経験する。しかし、この近代の
13 ハイデルベルクの学生だった頃の記憶をたどる。 チャンドラシェーカル・ヴェンカタ・ラーマン・ジュニア教授は、講義の受講者がぼく一人きりになってからは、しばしば講義を途中でやめて散歩にさそったものだ。歩いていても教えたり、考えたりするのは同じだから、教室にすわっている必要はない、とそういって。 もちろん、若いぼくとしては大歓迎だ。ラーマン教授の講義は数理哲学だから、黒板にたくさんの数式を書いたりノート
10 さて、話をつづけよう。 ルードルフ・ヘスとの交信を複数回つづけてあとで、どうやらこちらが、無駄口は多いがそんなにイカレていないと判断したらしく、百年先のテクノロジーを教えはじめた。教えたところで、実際に活用できまいと、こっちの能力を見切っているようですこし癪にさわったが。 つまりは、相手がネット通信衛星を地球に周回させているくらいのテクノロジー・レベルがあれば、過去次元にいるその相手とコンタクトをとるのはそう難しくないという
9 百年の未来から並行世界の人類のゆくすえに気を揉んでいるルードルフ・ヘスとの超次元チャットを終えて、ヘトヘトになって、ぼくはなんとか気分を変えようと戸外に出た。戸外といっても、すべて地下空間の施設の中だ。 こういうときは、あまりガラじゃないけれど、ボタニカル・ゾーンでリフレシュするというのが、ぼくたちの世界では普通だった。 ボタニカル・ゾーンというのは、人工植物園のことだ。小惑星地下施設で唯一、大量な植物群を育成
8 世界には善もなければ悪もない。 ただあるのは強さの原理のみ。 捕食され、滅ぼされるのを恨むなかれ。 ただ汝が弱かっただけ。 強き者はただ孤独に歩む。 こんなメール・メッセージが、突然飛びこんできた。言語は昔懐かしいゲルマン語だ。なんの挨拶だか。思い当たることといえば、例の《太陽系伝説》サイトをくまなく調べ上げて、ちょっとあきれて引き返してきたことくらいだった。別に足跡を残してきたわけじゃなかったが、どうやら訪問者を追跡するトラップがどこかにしか
それは、とても奇妙なきっかけから始まった。 ぼくは自作のネット監視システムのプログラミングに凝っていてね、不正アクセス、つまりハッキングをしようとしている連中をつきとめるハッキング・バスターてプログラムを完成させたばかりだった。ちょっと高度なプログラムで、ネット上をうろつきまわっている不正アクセスのコマンドを途中ですくいあげて捕まえてしまうんだ。相手が目的地に着く前にね。正確にいうと、他人の玄関に偽造のカギをつっこんでグルリと回そうとしている瞬間をキャッチしてしまう。まあ、ボ
Ἄνδρα μοι ἔννεπε, Μοῦσα, πολύτροπον, ὃς μάλα πολλὰ 我に語りたまえ詩の女神よ、あまたの苦難をなめしかの男のことを。 『オデッセイア』第一歌冒頭 Qui suis-je ?と、アンドレ・ブルトンは問いかける。「私は何者か?」と。その答をもとめているうちに、きみの一生は風のようにすぎてしまうのではないか。 チャンドラシェーカル・ヴェンカタ・ラーマン・ジュニア 第一
ウラジミール・カシン『孤島』1 「だめだ、ピョートル! もどって来い!」 北西の強風にあおられて、ユーリの声もちぎれとばされていた。 子犬のピョートルは観測所からひさしぶりに戸外にだされたのがうれしくて、狭い庭のはずれまでいっきに走り出していく。庭のむこうは、切り立った断崖だった。島の東側は岩の突き出た磯にまっさかさまに落ちていく絶壁になっていた。背の低い柵をめぐらしてあるが、突風でも吹けば小さな犬など断崖から吹き落されてしまいそうだった。 「ニェット、ピョートル!
練馬のアパートに着いたときには九時近くになっていた。 いつもよりゆっくりと自転車を漕いできて、途中の江古田駅ちかくの牛乳屋で一本飲んでひといきいれたときにも、あの蕎麦屋の男女の会話がひっかかっていた。あの蕎麦屋の男はどんなアブナイことに手をそめているのだろう。誰もが人知れずアブナイ橋を渡っているにはちがいない。アブナイ橋はいつ後ろから崩れ落ちはじめるかしれない。自分にとっては、今日の午後ミドリちゃんから渡された七万円が、その兆候というべきだ。このぶんでは、あと幾月家賃を払い
雨女(amaonna) 一 夜半に一度だけ、遠くで雷が鳴った。 しばらくあとで雨がやってきた。庭先のトクサの茂みが頭を揺らしはじめたのを縁先からみとどけたなり、私は硝子戸をしめて離れにひきこもった。 旅先の、しかも友人宅の離れに仮の宿りをはじめて三日になる。友人とその家族は、二日目の午後に、数日といいおいて親戚の法事にでかけた。体のいい留守居であるが、三度の食事も気儘に外にぶらりと出ては、蕎麦だのなんだのと誂えて、またふらりと帰ってくる。友人の宅で三度三度と煩わせるよ
白蓮抄 勝国 彰 画(部分) 一 「それが、その双子の姉妹ときたら、並外れての器量よし。そのとおり、双子じゃによって、どちらが劣るということもないわけだ。十六になる春には、気のはやい縁談が三つも押しかけた」 列車の揺れに目を覚ますと、近くの座席で声高に話す田舎紳士の大口舌が耳には
序 どうにも心が遊びにでてならない。いや、魂が迷い出るというべきか。昼といわず、夜といわず、時をえらばない。それでも、新月の夜がいちばん多いのはどうしたわけか。次は雨の宵。こちらは、世間の物音が遠ざかるためでもあろうか。 死者の声が聞こえてくる。生者の息づかいが遠のいていく。《いま》という時も遠ざかる。自分は《いま》という時にふさわしからぬ人間のような気持ちにさえなってくる。このあやうい感覚がはじまると、さすがに用心せねばならない。これまでも
丸尾印刷の月末の集金の集金は、あっけなく終わってしまった。近隣で、小口ばかりだったのだ。あとは、蒲田方面の会社が一つ残るだけとなる。 「神尾君なあ、そこが済んだら、うちの当座に直接入金しといてくんないかな。口座番号はここにあるよ。うちも明日から夏休みだ。機械を動かすほどの仕事もねえしな。盆明けに、あれだ、大口の依頼がくることになってるから、それまで骨休みだな。島ちゃんも帰ってこないし、カミさんも実家の墓参りにいきてえらしいや」 丸尾社長は体をゆすって立ち上がってきた。当座
部屋にもどって、一週間分はある新聞をつぎつぎにひろい読みした。一面のトップ記事などに興味はない。ローカルな記事とか、社会面にあるちょっとしたエピソードのような記事が好きだった。空き巣とか、ボヤ騒ぎとか、線路に置き石があったとか、とうていメジャーな記事にはならないありふれた事件にのなかにいつも心を惹かれる。いつだったか、台風で都内某所が浸水し、下水管からも水があふれた日に、自転車に乗った男性が、口をあけていたマンホールの中に落ちて行方不明になったという記事を読んだ。「マンホール