
日曜日のchanting
お祈りやプージャーは毎日しますが、曜日によって唱えたほうがいいとされるお祈りがあるそうで、今日は日曜日なのでAdityahrdayamを。
このごろ人間関係のストレスが強く、また眼もよく見えなくて、少し精神的に参っています。
Adityahrdayamは、ラーマがラーバナとの戦いで悩み、力を失ったときに聖者アガスティアから授けられたストートラムです。
また、眼、見える力をつかさどるデーヴァターが太陽です。
わたしにも、アダルマに立ち向かうパワーと平静なマインド、判断力、行動力が備わりますように。
以下は、Medha先生の解説。
長年のもやもやしたことが、少しづつクリアになってきています。
闇を晴らしてくださる先生がいるおかげです。
以下について、どのように考えて、聞かれたときに答えたらよいのか、昨日先生に聞きました。
ヒンドゥー教徒なの?
信仰心があるね。
帰依したの?
何かの宗教?
ヴェーダーンタを勉強しながら、全く違う環境に身を置くと、よく言われる言葉です。
私の場合、アーユルヴェーダのお仕事のほかに、ソーシャルワークという生業もあるので、後者のほうではベジタリアンですら「何かの宗教?」と聞かれ、説明してもなかなか受け入れてもらえません。
ビーガンやなんとかベジという条件付きのものとも違いますし、アレルギーだから食べないということでもない。好き嫌いが激しい人、わがままと言われてしまえば、もう何も言えませんね。
食事の選択のほか、ひとつひとつの言動をダルマかアダルマか考えたり、アートマかアナートマか判断したり、聖典にはなんと書かれているのか、先生はなんとおっしゃるのかというシュラッダーに気を配ったり、生活や考え方の根幹にはイーシュワラの理解があり、そのうえでプージャーしたり。
サンスクリット語やヴェーダーンタを勉強するということは、こういうことで、それは先人たち、先生方の教えによって大切に受け継がれてきました。
この生活を慎重に行っていくと、奇跡と感謝しかありません。
上記のようなことは、日本に住んでいるわたしができる一部ですが、インドのシンドゥ河流域で、聖典(Veda)にのっとった生活をする人々のことを、外部の人が「ヒンドゥー教」と呼んだのだそうです。実際にこのような生活をしている人たちは(わたしの先生の先生の先生・・・・たち)は、自らのことをヒンドゥー教とは言わないそうです。
そう、ですよね。
カースト制度も、イギリス人の概念の押し付けですから。
そして話は戻ると、わたしに
ヒンドゥー教徒なの?
信仰心があるね。
帰依したの?
何かの宗教?
と聞いてくる方に、丁寧にご説明したいのと、または先生方に説明していただくのが一番良いと思うのですが、聞いてくる方に限って、人の話を全く受け付けません!!笑
どういうつもりか、聞きっぱなし?話しているそばから、でもそれってさー、でもさー、と反論してくる。反論の基準はWikiではこう書いてあったとか、仏教のお坊さんが言ってたけど、とか根拠のないことなんです。
真実を知りたいのであれば、
真実を知っている方に聞いてください。
先生というのは、そういう方ですから。
聞きたいと思うのなら、聞きたい姿勢で聞いてください。
わたしが知っていることはお伝え出来ますので。
宗教は何か、あやしいものか、尊いものか。
それも、あなたがどう判断しているか先に教えてください。
あなたが思っている宗教と、わたしが思っている宗教は同じなのか
違うのか。
そんなコミュニケーションの基本を、最近悩んでいましたが
ここに書いているうちに少し整理されました。
みなさまよい連休を。