7.心の割礼
6.の記事の出来事があって、私は、さらに熱心に聖書を読むようになり、聖書の語る神様の言葉を受け取りたいと思うようになりました。教会でも個人的に聖書の学びの時間を取って下さり、色んなお話を聞くことができました。
これまでの自分は何かとても大切なことを見逃し続けてきたのではないか、この聖書の中で神様が語ろうとする声を聞いてみたいという想いで聖書の言葉を読むとき、一つ一つの言葉の中に、新たな発見をたくさんして、とても楽しい時間でした。
「この新しい価値感に従って人生をもう一度やり直してみたい」、「やり直していける」というワクワクした気持ちで読み進めることができました。
旧約聖書には、ユダヤ人が「割礼」という儀式を行っていた記述があります。
割礼というのは、男性器の包皮を取り除く儀式ですが、現代の日本に住む私には、それがどの位の痛みを伴うものなのか、想像もつきませんし、なぜ神様がそれを求めたのかも、(きっと何か意味があるのだとは思いますが)正直言って良く分かりません。
男性器という非常に繊細な部分を覆う包皮が取り除かれる訳ですから、新しい皮膚が現れることを象徴しているのかな、と思っています。
ただ、申命記30章6節には、「あなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し」となっていて、「心の」割礼と書かれています。
自分の心をそれまで覆っていた包皮が取り除かれ、それまでに自分でも気付かない心がもたらされることが「心の割礼」なのだとすれば、私には、目の見えないお二人の讃美を聞いたときの回心が、私の「心の割礼」であったように思います。
神様の前で初めて自分の殻が割られ、自分本来の姿を神様の前で現された経験だったように思うのです。
それまでは、自分で思っていることや、考えていることが全てと思っており、それで良いと思っていましたが、その後は、神様の思いや、まなざしがどこにあるのかを意識するようになってきました。
握りしめていた自分の枠を手放すこと、それが聖書に書かれている、御霊による「心の割礼」なのだと思うのです。
そして、そのような回心によって新しい心が露わにされたからこそ、この当時、様々な機会に聞いた聖書の御言葉は私の心に染み入って来たように感じます。
長く教会に集っている今は、正直にいって、この当時の自分のような素直な気持ちは持てなくなっているかも知れません。
今は、何かお話を聞いても「あ。あの話ね。」といった具合に、予備知識を持って自分の記憶しているところと照らし合わせて聞いている感じがあり、ゼロから新鮮な気持ちで聴いていたこの当時のことをお話していると、改めて新鮮な気持ちで聴くことの大切さも感じます。
そして、どこかマンネリな気持ちで聖書を読んでいる今の自分に対して、本当に自分の殻を捨てるつもりで聖書に向かっていたこの当時のことを、折に触れて思い出すようにしないといけないな、とも感じるのです。
画像は、こんゆじまじこさんのものを使わせて頂いてます。