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人ひとり、無事に生まれてくるということ

一年以上前に書いた子育て中のこの話。

1992年4月15日。

ふたりめの子どもを亡くして今日で30年になる。

亡くなったとはいってもお腹の中で、妊娠5か月になろうという頃だったか。長男を出産した産婦人科で、いつもの院長先生が超音波の画像を見ながら「ん…これは…」と表情を曇らせた。そして真剣な面持ちで、

「来週、もう一度ご主人と一緒に来てください」

と言われた。
1週間後、夫と一緒に再び受診した。超音波を確認した院長先生が言うことには、今の時期であればしっかりできているはずの胎児の頭蓋骨の、おでこの部分ができていない、とのことだった。それは、お腹の中で生きていくことは可能だが、生まれて外へ出た瞬間の死を意味した。

「800人にひとりぐらいの割合でね。稀にこういうケースがある。原因はわからないし、あなたのせいではない。つらいけど、次は元気な赤ちゃんを生もう」と言われた。看護師さんも「私は生まれて亡くなってしまったケースを看たことがある。本当にかわいそうだった。あなたは生まれる前にわかって良かったんだよ」と励ましてくれた。生まれて来て、障がいがあっても生きられるのなら?と思ったが、それは最初から選択肢にはないとわかった。途中で赤ちゃんを失うことに納得し、自分の気持ちに折り合いをつけるのに少し時間が必要だった。まだ胎動を感じない時期だったのがせめてもの救いだった。

入院し3日かけて胎児を出す処置をし、陣痛を起こしてその子を出産のような形で生んだ。出て来た子を、自分の目で見ておきたい、と言ったが叶わなかった。絶対にダメ!と拒否された。前回と同じ看護師さんに「次は元気な赤ちゃん生もう。大丈夫だから」と、再び励まされた。しかし夫は、遺体の確認という意味でその子を見なければならなかった。てのひらにのるほどのその小さな亡骸を、それまでの人生で見たこともなかった小さな棺に入れて自宅に帰り、「ヤクルト買ってさ。ゆうべ一緒に乾杯したんだよ」と翌朝聞いた。

たまたま職場などで流れでこのことを話すと、聞いてはいけない話を聞いてしまった、と思うのか若い同僚はみな心苦しい顔をする。もう何年も経っていて、仕方のないことだし気にしないで、話したくなければ話してないから。と言う。3人の子どもたちにも話して来たが、特にその子の後に生まれた二男は心に響くものがあったのか、小学5年生の時に作文に書いていた。

「僕は、その子の分も一生懸命生きて行きます」と。

さて。もうあれから30年も経つのかと不思議な気がする一方で、一番下の娘にもうすぐ赤ちゃんが生まれる。お腹の中で無事に育ち、母子ともに大変な思いをしてこの世に生まれてくるということは、なんと稀有でありがたいことだろう。同時に、自分の母への尊敬、感謝も生まれた。ひとりを失いはしたが、よくぞ無事に3人が生まれ、健康で成長したものだ、と感謝しかない。私自身は仕事があまり長くは続かなかったり(今のところ最長6年)諸々において良い母親とは言えないが、3人の子どもたちに人として成長させてもらったと思う。私たちの子としては上々だ、と常に夫と言い合っている。

はじめての私の孫ちゃん。どうか無事に生まれてきてね。あなたのママは、私に絵本の読み聞かせを丸投げするつもりよ。

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こんゆじまじこ
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