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コロナ下の企業経営、過去を振り返って①

偉そうな事を言うわけではないけど、コロナ下の企業経営は二分されたと考えている。成長企業と衰退企業だ。そこで一つだけ言えることはコロナ下でも成長している企業は、リスク分散されてきた企業だということだ。

バブルの崩壊。30年も企業経営をやっていると、その間にいくつものリスクを経験してきた。私が会社を始めたころはバブル真っ最中だった。若かりし私は会社を作ってすぐにバブルが崩壊した。あと数年早く会社を起こしていればバブルの恩恵を受けたかもしれないが、会社が軌道に乗る前にバブルが崩壊した。まだ会社が小さかったためか、傷も浅かったが、ソフトバンクのように大きく成長する機会がなかった。今のソフトバンクを見てるとそれはそれで幸せなのかもしれない。バブル崩壊後は成長が鈍化し、ゆっくりと成長することしかできなかった。しかしその時私は決心した。急成長するよりゆっくり長く成長させよう、5%成長で十分ではないか、と。その後、毎年5%成長でゆっくりと30数年間会社が成長した、ある年を除けば。

消費税増税。30数年間の経営の中で、一度だけ大赤字を出して会社を潰しかけた。1997年、消費税が3%から5%に上がった年だ。1997年の4月までは3%、消費税が上がるという初めての経験をした私は、消費税増税前の買いだめ特需に浮かれていた。会社の業績は好調で社員も倍増し、オフィスも倍に増床、売り上げも150%成長で伸びていた。異変に気付いたのは消費税が5%にアップした1997年4月後半のことだった。予定されていた売り上げがお客様の都合でペンディングされ始めた。キャンセルも出た。3月の特需と比べれば4月の売り上げは半分だった。半年前に増床した200坪のフロア面積は、むなしく空間が空いてた。社員をもっと増やして売り上げを上げようとしてたからだ。

Windws95の発売。運悪くシステムの流れも変動期に入っていった。1995年12月にWindows95が発売されて、それまでのDOSのシステムは古臭いものになってきてた。今では信じられないかもしれないが、まだまだWindowsは業務として使うにはバグが多く使いずらいものだった。しかし、世の中はwindowsに傾き始めていたので社内では既存システムのMS-DOSと新規Windowsシステムの両方を開発していた。つまり倍の人件費、開発者が必要だった、ということだ。

インターネットの出現は、度肝を抜いた。通信はまだモデムだったし、Novelという会社がNetWaeというLANを組んでた。ブラウザもMosaicだったし、Netscapeもexploreもなかった。会社は1997年、いち早くWindowNT3.5を使ってHPを立ち上げたが、わたしもまだMailって何?って世界だった。私の記憶ではHPを立ち上げていたのはNECと富士通くらいで、NTTがNTTdirectoryという検索エンジンを立ち上げていた。NTTdirectoryをあのまま成長させていたらとてつもない企業に成長してただろうに、2000年くらいにYahooが出てきてNTTは検索エンジンからあっさり撤退した。WindowsというOSが出てきたためにインターネットが急成長し、Novelはあっさりとどこかに消え去った。私はWindowsアプリを成長させるのに必死でくらいついていた。

2000年問題、まだまだ西暦表示を2桁でやってた頃、西暦を4桁にしなくてはいけない2000年問題が起きた。そのころ消費税増税で大赤字を出して山手線のターミナルの近くで200坪のフロアを借りていた事務所は、1997年10月、都内地下鉄の駅から歩いて10分もかかる66坪のフロアに引っ越していた。当然、ターミナル駅から不便な地下鉄徒歩10分に引っ越したことにより、約半分の社員はリストラなしに自主的にやめていった。売り上げも4割減だが経費も半減したため、一息ついた。2000年問題は、わが社には大きなチャンスであり、大きな賭けだった。わが社は、今まで10年以上売り続けてきたMS-DOSのシステム販売をやめ、Windows98版のアプリ一本に絞り込んだ。2000件近いお客様があったが、そのお客様の中にはまだ動きの遅いWindowsにシステムを交換することを抵抗するユーザーがかなりいたが、一件一件説得して1999年までにシステム交換をしていった。2000件近いお客様のシステム交換は、ソフトは数万円のバージョンアップ費用くらいしか取れなかったが、ハードをすべて交換していったのでかなりの売上になった。1998年以降どうにかぎりぎりの黒字を保つことができて、2000年超えるころには、1997年消費税増税の大赤字のダメージも克服しどうにかなった。大赤字を翌年黒字に戻したことにより、信用も回復した。

まだ、私が20代-30代の黒歴史であるが、これだけトラブルが続くと予防線を張るのもうまくなっていく。常に何かが起こることを前提条件に会社の商品構成や組織を考えていくことがうまくなった。2000年までには阪神大震災も起こった、大阪支店は上の階が水漏れを起こし、あともう少しでビショビショになるところであったが、ビルの端だったので助かった。そのあとすぐ雑居ビルから大手のビルに引っ越した。会社も十数年たって余裕が出てきたのでテナントも設備も人もだんだんお金をかけて、何があってもいいようにと準備していった。まだ、BCPという概念が世の中に出ていなかったころだ。

長くなったので、2000年以降は次の会で。

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