「キャラクター」の誕生 ― アメリカ判例データベースより浮かび上がるもの(2/8)
キャラクターなんていなかった
今日「まんが」(comic strip)と呼ばれているものの始祖として、ニューヨークの新聞日曜版を毎週彩った、いわゆる “Yellow Kid”シリーズ(1896-1898年連載)を挙げるのが定説になって久しい[1]。だが、当時のあの国において、今日「キャラクター」と呼ばれている概念は、未成熟どころかその輪郭さえ生まれていなかった事実が、判例の分析から浮かんでくるのである。(詳しくは本論考後半で)
ここで『キャラクターとは何か』の論を振り返ってみよう。欧米での印刷技術の発達によって活字と挿絵の同時印刷が以前より容易となり、挿絵が本文著者と読者の想像力と創造性を刺激して、主人公像の自律化が進んだとする説は、非常に示唆に富む[2]。
さらに同書には、ディケンズのある小説が、ある挿絵画家による下層貧民の大量のスケッチに刺激されて登場人物が造形されていたという逸話が紹介されている。今でいう「キャラクター小説」のやり方が1830年代後半にイギリスで芽生えていた、と[3]。
しかしながらこの論には穴がある。今でいう知的財産の保護のための法制はもっと後(19世紀後半のヨーロッパ)で整っていったこと、その一方でアメリカが(人口と工業力の驚異的発展とは裏腹に)そうした動向には距離を置き続けたことこそが、これより本論考で検証していくようにカトゥーンの主人公の自律化、ひいては20世紀における知財化の見えざる背景となっていた歴史を見落としているのだ。
カトゥーン(cartoon)という名称の由来についてはここでは省かせていただく。ニューヨークで新聞メディアが世界で突出して発展した背景、ならびに日曜版でカトゥーンがその存在価値を増していった経緯についても、字数の関係でここでは省く。最新のニュースが翌日には無価値となるように、当時は、新聞本欄掲載物はカトゥーンも含めて、消耗品と同じであったことを、むしろどうか想起されたい[4]。
今更だがアメリカの著作権法について、以下手短に解説する。
イギリスからの独立戦争の末に独立宣言(1776年7月4日)した13州は、その後ほかの国々による領土を順に併合しつつ、現在の合衆国になっていった。
一方ヨーロッパではその後、フランスでのナポレオン法典に影響されて、各国で特性の違いこそあったが「人権」を基本にした法制が精緻化・体系化されていった。
アメリカはというと、ヨーロッパからの独立という国家精神からか、そうした動向には背を向けて、憲法制定後も独立前の暫定的な法をいろいろ運用し続けた。特許法や著作権法についても、驚くほど素朴なものが(数度の改正を経て)20世紀に入るまで使われていた。ヨーロッパ法制では著作権は自然発生とされているのに対し、アメリカでは特許と同じく国の機関への申請登録制が保持されていた。
つまり本を刊行しても、著作権局に申請登録されていなければ、それは「作品」(work)ではないとして著作権法で保護されない。カトゥーンの場合もそうで、雑誌や新聞に掲載されても、著作権局に申請登録されなければ「作品」ではなく、使い捨てのチラシ絵と同じであった。
漫画家(cartoonist)という職業が、当時自立的には存在していなかったという事実も、ここで再確認しておきたい[5]。1890年代に発行された、「トゥルース」(Truth)などカトゥーンの掲載に積極的だった雑誌で毎号活躍していた絵描きたちは、編集部の部員つまり社員(employee)か、契約に基づく外部からの定期寄稿者(regular contributor)としてであった。一方新聞の場合、とりわけ世界屈指の都市人口とその収まらぬ増大ぶりを誇ったニューヨークでは、激しい発行部数競争の下、記事にイラストレーションを付けて購買意欲を刺激するためにも、絵師(illustrator)を社員として雇用していた。こうした記事挿絵師たちが日曜版でもカトゥーンで腕を振るったのだった。
以上の当時の基本的な事がらを再確認しつつ、「キャラクター」発見の前期(繰り返す、前期)について、本論考ではある著名なサンプルを選び、従来の通説とは少し違う視点から眺めなおしてみよう。
1894年、風刺雑誌「トゥルース」で「ホーガン横町」(Hogan’s Alley)の名でカトゥーンの新作が毎号掲載を開始した。ホーガン横町という、架空の、しかしブルックリンの実在のアイルランド系貧民街を彷彿とさせる町が設定された[6]。翌年にこれの絵師が「ニューヨーク・ワールド」紙(以後NYWと略称)の挿絵絵師として社員雇用された。それとともに「横町」のタイトルで、同紙日曜版で、同絵師によるカトゥーン新作が掲載されるようになった。
これは現代日本でいう、連載まんがの他社移籍とは違うものであることにどうか留意されたい。「ホーガン横町」というタイトルからもうかがえるように、この架空の(しかし当時の読者にはおそらく地続きの場所に感じられたであろう)貧民街を絵師が設定し、読者ともイメージ共有されていた。
さらにNYW日曜版ではもうひとつ、面白い工夫がなされた。描かれる子どもたちに、たまに名前が付いているのだ。たとえばここに描かれる女の子は「リズ」という名前であることが記されている[7]。
「横町」は絵柄が次第に変わっていくのだが、「リズ」やその仲間数人については、少なくとも名前は一貫している。当時の読者にどのくらいこの仕掛けが理解(というか共有)されていたのかは分からないが、少なくとも絵師はこの貧民街に限らずその住人のいくつかについてもアイデンティティを付与しだしていたことがうかがえる。
やがてそのなかのひとりに、ファンレターが届くようになった。「リズ」ではなく、その近隣者で、白人でも黒人でもない、黄人、それも当時の欧米における中国人男性の戯画を、やんちゃな子の姿に加工したものに、だ。[8]
「トゥルース」誌時代の「横町」に、すでにその原型が確認できるとはいえ、しばしば三つ子とも兄弟ともつかない姿で描かれていた。
それがどうして、単身としてのアイデンティティを当時の読者に読み取られたのかというと、おそらく着ているつなぎの服に手形が描きこまれていたからだ。やんちゃで貧民街の子どもどうしの喧嘩もよくあって喧嘩相手の手も油混じりに汚くて、それが服に残ってしまっているという、今でいう「汚し」の演出だったのが、読者の目には次第に同一人物である証と読み取られたようだ。
ちなみに現実の当時の中華系住民は、1882年に中国人労働者移民排斥法(Chinese Exclusion Act)が十年の期限で議決され、十年後の1892年に同法が更新された影響で、ニューヨーク全人口において0.1%ほどのマイノリティに留まったのにくわえ、そのほとんどは流れの労働者ゆえに成人男子で、子どもはまず見られなかったと思われる[9]。
移民の国でありながら中華系の人間は排斥にかかった当時の事情については面白い事実がいろいろあるのだが、本論考のテーマより逸れるのでここでは触れない。そもそも「横町」の絵師にそういう政治的な意識があったかどうか疑わしい。アイルランド系貧民という、当時のニューヨークのマイノリティのなかに、さらなるマイノリティである中華系住民、それも子どもを「横町」に混ぜ込んだのも、当時のサーカスでは定番だった小人症ピエロ的なものだったと思われる。そしてピエロだったゆえに、アイデンティティが読者には読み取られ、また絵師そのひとによってそれが付与されていったようである。
大衆小説の挿絵はどこまでも小説の付随品であったのに対し、このピエロ少年像は、中華系幼児というファンタジー性もあって、地の文にあたるものから遊離し、現代でいうネットミーム的なものに接近していったのだった。
こにもうひとつ、地からの遊離が生じた。絵師が「ニューヨーク・ジャーナル」(以後「NYJ」と略称)からの誘いを受けてNYWを去ったのだ。激しい部数競争が続く中、日曜版のカトゥーン人気は絵師の引き抜きを生んだ。引き抜かれた側は、他の社員絵師に執筆を続行させた。これは(あくまで空想の話であるが)夏目漱石に好条件を持ちかけて朝日新聞の特別社員から讀賣の特別社員に鞍替えさせて「こゝろ」の続きを讀賣で連載させたところ、朝日は朝日で別の社員に「こゝろ」を継続させたというところだろうか[10]。
仮にもし、こういうことが起きたとして、漱石は讀賣に差し止め請求できるかというと、当時の法制(それに雇用契約内容)では対処しきれなかっただろう。日本は19世紀のうちにヨーロッパと同水準の知財法制を施行していたが、今でいう「不正競争」についてはヨーロッパでさえ明確には法制化されていなかった[11]。アメリカに至っては、当時の法制全体がヨーロッパや日本よりも素朴なうえに、分野によっては今でも連邦系の裁判所ではなく州ごとの裁判所の所轄だった。つまり、不正競争に当たるかどうかの判断は、州ごとの過去判例に拠るため、州によって異なった。
「不正競争かどうかを争うのではなく、著作権の侵害行為であるとストレートに訴えればいいではないか」と思われる向きもあるかもしれない。
だが連載中の「こゝろ」の、未だ書かれざるぶんについての著作権が、事前に発生すると主張できるかどうか[12]。ましてやアメリカの国内法制では、著作物として申請・登録しないと著作権は生じない。すでに掲載済のものでさえそうだとすると、未だ書かれざる分について「これまで連載してきた著作物の一部」と主張しても、法廷で通る見込みは薄いだろう。
要するに「ホーガン横町」の絵師は、他社の雇用下に移るにあたって、旧雇用者が「横町」シリーズをほかの社員絵師に継続させるのに待ったをかけることはできないし、反対に旧雇用者はくだんの絵師が新雇用者の下で「横町」を継続するのを差し止めできないのだ。
むろん一番いいのは、連載開始前(あるいは社員雇用の際)に、著者が辞職ないし他社の雇用下となる場合についても、雇用する側とされる側(著者)とのあいだで、事前に細かく条件を詰めておくことだ。しかしそれはもっと現代に近い時代から眺めての、後出しじゃんけん的な入れ知恵なので、ここでは除外する。
また今であれば「不正競争」の一言で相手に圧力をかけられるし法廷で有利に争えるだろうが、あいにくこの法概念はこの時代の西洋世界(日本もいちおう含めておく)にはその名称すら像を結んでいない。そもそもNYWもNYJも、購読者が増えてくれればそれでいいとごく素朴に考えていたとさえ思われる[13]。
絵師はそうは考えなかったようだ。移籍直前に描かれたこれには、後任絵師となる人物が右上に悪意いっぱいで描きこまれている。また戯画化された絵師も、後継第一作のなかでくだんの中華系少年を介して「ニセモノにご用心」と揶揄していることから[14]、双方が互いに不快感を抱いていたことがうかがえる。
現代の法制で考えるならば、「著作者人格権」すなわち「著作物の創作者である著作者が精神的に傷つけられないよう保護する権利」[15]の侵害にあたるとして、本来の絵師が公にアピールすれば勝ち目があるのではないかと思うところだが、アメリカにおいては当時この権利(を保証する諸権利)は明文化されていなくて、裁判判例を探ってみても1904年になって、絵画著作物の改変を阻止する権利が著作者にあるとする判断が下されたものが見つかるぐらいで[16]、つまり19世紀には「著作者人格権の保護」も、「不正競争への差し止め」(詳細は後で)も現代のような形にはおよそ程遠いものであったことがうかがえる。
A社よりB社に移る際に、絵師がくだんの中華系少年像を著作権局に「作品」(work)として申請登録できないか問い合わせたという[17]、あの有名な逸話の本当の文脈も、このあたりにありそうだ。
『キャラクターとは何か』を典型に、これまでいろいろなまんが(comic strip)研究でこの逸話は、キャラクターの理論模索の世界的画期(少なくともその前期的なもの)として言及されてきた。
しかし、アメリカ法制の当時の未成熟ぶりや、連邦/州の二系統の裁判制度(現在も存続)にくわえ、連邦/州判例の蓄積不足、それにアメリカ国内に留まらず国際的な知財議論が発展途上であったこと、何よりそうした問題意識自体がニューヨーク新聞界で当時芽生えていなかった(詳しくはもう少し後で検証する)事実を踏まえると、くだんの絵師は、自分以外の者が「横町」の新作を世に出せないようにするための、今でいう裏ワザ的なものを素朴に思いついて、このアイディアは使えるだろうかと著作権局に駄目でもともとで問い合わせて、却下の返信を貰ってそれで引き下がったというところではなかったか[18]。
そもそもこの頃は、連載物についてはそのタイトルの帰属(ownership)こそが重要視された(詳細は後で)。これも比喩説明になるが、漱石が「こゝろ」の連載を讀賣に移すにあたってタイトルを「先生の遺書」と変更して続行し、一方で朝日ではタイトルが「こゝろ」のまま連載が他の社員小説家によって継続されるようなもの…とでも言えば感じはつかめるだろうか。
実際「横町」の絵師はNYJ紙に移籍(=社員絵師となった)後、くだんの中華系やんちゃ坊やとその仲間たちを継続的に登場させながらもタイトルは別のものにされた。同紙はさらに、同一紙面に別著者によるテキスト読み物を毎回掲載して、それの挿絵であるかのようにレイアウトをしているのは興味深い。NYH紙からもし差し止め訴訟を起こされても、ここまで用心すれば「いったいどういう法に拠って差し止めを請求するのか」と反撃できるという計算も、あるいはあったのかもしれない。
ここで19世紀における知財がらみの国際条約についても少し触れておこう[19]。1883年、フランスの首都で「工業所有権の保護に関するパリ条約」[20]つまり特許とその周辺についての条約が11の国によって批准され、アメリカも数年遅れで批准している。しかし「文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」(1886年作成)つまり著作権に関する条約についても、アメリカが批准するのは百年以上も後になってからだ。
ちなみに日本は1899年つまり19世紀のうちに両条約に批准している。そのための国内法の整備を、もっと前から進めていた。つまり当時のヨーロッパ先進国から眺めると、アメリカ(それに南米を含むその周辺国)は、知財がらみの法制については日本よりも後進国であった。しかしその一方で、資源、労働力、工業技術力の三つで世界の先頭走者という、激しくアンバランスな国でもあった。
ニューヨーク大新聞のカラフルな日曜版発行競争も、この三つが重なったゆえの落とし子だ。高速大量カラー印刷機という最新テクノロジーと、膨張していく新聞購読者市場が化学反応を続けるなか、後にドイツの思想家ベンヤミンが名付けるところの「複製技術時代の芸術」のひとつとしてカトゥーンが独自進化して、一方で絵師の移籍騒動をきっかけに、アメリカ独自(それともニューヨーク新聞界独自というべきだろうか)の法理論が萌芽することになった。
今、2020年代に入ってアメリカでのAI開発と普及が劇的な速さになって、世界各国の法制が必死に後追いしている現状を思うと、その遠き始祖という気にさえさせられるが、それはさておき、1890年代のアメリカ・ニューヨークは、発明王エジソンによる市内電力供給システム拡張あたりを思い浮かべていただければイメージできるように、19世紀ヨーロッパ文明の枠を、ゆるりと逸脱し、新種を花咲かせていった。そこには20世紀とともに花開いていく「キャラクター」(fictional character)を予感させるものも含まれていたのだった[21]。