「キャラクター」の誕生 ― アメリカ判例データベースより浮かび上がるもの(7/8)
キャラクターをめぐる勧善懲悪史観の誕生
もっともその反動が1960年代後半に生じた。公民権運動やベトナム戦争反対運動を背景に、いわゆるアングラ・コミックスが、出版社主体のやり方への対抗勢力として(それにヒッピー文化の血とともに)現れた[1]。これはベトナム戦争の縮小とともに70年代前半に失速していったが、入れ替わりに社会的事件を二つ、呼び込んだ。
ひとつは、スーパーマンの原作者コンビの不遇ぶりをアングラ系まんが家たちがマスコミに訴え、これで世論が騒ぎ出したため、1975年より出版社側が毎年両者に年金と、以後の新作に必ず二人の名前を生みの親として表示することを表明したことだ。
もうひとつは、ディズニー・キャラクターを使ったポルノ同人まんが誌の通販を、ディズニー社が差し止めと賠償を求める裁判が1972年にあって、1979年に連邦最高裁がディズニー社の主張を通したことだった[2]。ウォルトはすでに十年以上前に亡くなっていたが、彼が生涯かけて世に(広報写真を巧みに使ってサブリミナル的に)アピールした「キャラクターには人格があり、法で守られてしかるべき」という主張が、この連邦最高裁で事実上是認されたのだ。
この二つの事件は、架空キャラクターを自律的人格を持つ特許(それゆえに申請登録不要、かつ「生みの親」の名誉を特定の人物に与えることも可能)とみなす考え方が、アメリカの奇怪な法制度をかいくぐって生まれ育まれ、そしておよそ80年がかりで公的に是認されたことを示す象徴的なできごとであった。
その影響からか、以降のアメリカのコミックス研究者の論文や著作を年代順に(そして無作為抽出的に)読んでいくと、この考え方がまるで自然発生的かつ人類普遍的に昔からあって、それをアメリカが世界に先駆けていったかのような自国中心・後付け史観に収束していく感がある[3]。
そのためかの国の研究者たちによるこのテーマの論考は、過去の重要判例への言及があっても、「キャラクター=知財」とする現代の価値観で解釈しがちだ。実際はそういうものはアメリカン・ドメスティックな法理論と契約慣習の上で芽生えたものであり、それが世界随一のエンタテインメント生産力の後押しとともに、半世紀がかりで世界を呑み込んでいった(日本のように「目で盗んでいった、間違った風に」のケースも含む[4])と見るほうが真実に近いと思われるのだが、そういう発想は彼らの脳裏を過らないようだ。自分たちの母国のことゆえにその法制度や商習慣の特殊性に自覚が薄く、そのためどうしても自己中心的な、ことばは悪いが勝者史観に偏りがちである。
悲しいことだが、日本の研究者たちもこの歪みに感染していて、そのことに自覚のある者もあまり多くないようだ。前述の小田切によるキャラクター三属性分析にも同種のアメリカ勝者史観が感じられる。この考え方は、自然発生どころか20世紀アメリカにおいて数十年がかりで実務的・集合知的に形成されていったものであること(そもそも彼の理解が不正確であること[5])が完全に見落とされている。
伊藤の論についても同様だ。彼のいう「キャラ」自律は、本論考で検証したように、歴史的には絵師の他紙移籍に伴って萌芽したものとみるべきではないだろうか。そしてアメリカ独自の入り組んだ法制の下、売買も可能な知財として取り扱えるよう、人格を有しようがない仮想的存在に自律的人格を見出し保護するという、非常にトリッキーな商取引的裏技が進化し、そうした見えざる岩盤上でミッキーらが活き活きと資本主義の歯車のなかを駆け抜けていく様を、田河水泡や手塚治虫など日本の漫画家たちが(岩盤の存在には気づかぬまま)憧憬し、やがて日本独自のMANGA市場が形成されると、後付けで「キャラクターがキャラに自律」と自然発生的現象として理論化した代物・・・と決めつけては酷だろうか[6]。
この他にも、19世紀末のニューヨークでの蓄音機の普及とともに、カトゥーン内における音の表現が、現代の音声ペン的な感性で読解されるようになった末に「内声」が芽生えたこと等、本論考では触れなかったがいろいろな要因が挙げられる。
さらに拙説を述べさせていただくと、フランスのティプフェール作品等を取り上げて現代まんがのルーツとする近年の史観は、少々素朴に思える[7]。ネアンデルタール人を現生人類の直の祖先とする説は、その後のDNA分析技術の発展とともに現在は否定されていることを想起されたい。血は絶えなかったとはいえ、彼らはむしろ現生人類の祖先によって取って代わられた(要するに絶滅した)とするのが、昨今の生物人類学の主流である[8]。