龍一少年、ピアノを習い始める
前回に引き続いて、自叙伝『音楽は自由にする』をもとに彼のピアノ歴を追っていきましょう。
彼の家にピアノが置かれるようになったのは小1になってからでした。
幼稚園ではピアノを弾く時間があって、卒園後に母親たちが「せっかくだからどこかピアノの先生に習いにいかせましょう」と声をかけあって、卒園生のうち十人くらいの子たちが、同じピアノ教師のもとに通って稽古を続けたのでした。
徳山寿子というこのピアノの先生、元祖モガで、龍一くんが通い出した頃には55、6歳ですので当時としては老齢といっていい方でした。明治生まれのハイカラさん。稽古は厳しかったけれど、面白い教え方をされていました。
ベートーヴェンの交響曲「歓喜」の楽譜を生徒たちに配って、レコードで演奏を聴かせて「どこがテーマか、楽譜を見て探してみましょう」と呼びかける。次に「このテーマはどの楽器でどういうふうに出てくるか、赤鉛筆で印をつけなさい」と切り出す。
あれの第四楽章のことだと思います。あの楽章はたしかニ長調だから楽譜の各段の左端に # 記号が二つつきます。テーマといえば「ミーミーファーソーソーファーミーレードードーレーミーミー、レレー」。この音型をオーケストラ楽譜から見つけだせというのですかマダムトクヤマ? おお、小さいときの私なら絶対のってしまうわこのクイズ! こういうゲームを通して龍一くんたちは楽譜の読み方や音楽の聴き方を少しずつ掴んでいったのでした。
バッハの楽曲についても彼はそうやってなじんでいきました。「こんなところにさっきのメロディが出てくる」「ここではひっくり返って出てきている」「今度は二倍に引き伸ばされて出てきた」という風に、楽曲構造がどんどん見えてきてわくわく、面白い。そういう聴き方を彼はピアノのお師匠さんから教わっていったのでした。バッハ大好きっ子。
上の動画は、ずっと後にNHKの音楽教育番組でバッハの楽曲分析をしたもの
そういえば龍一くんは左利きです。バッハの曲は、メロディが右手で弾くものとは限らなくて左手に移ったり、さらに形を変えて右手に再登場したりと、左右の手が常に役割を入れ替わりながら、上下関係に縛られないで進んでいくところが、ぎっちょの彼には体でなじむものでした。
余談ですが彼は家であまりピアノの練習はしなかったそうです。それから小1よりずっといっしょに稽古に通っていた、幼稚園からの級友たちは、中学受験に軸足を置きだしてやがてピアノ教室を去っていきました。龍一は区立中学に進むことになっていたので、お受験に振りまわされずピアノの稽古に通い続けました。
小5のときでした、「別の先生のところで、作曲をやりなさい」と切りだされました。お師匠さんは彼に作曲家の資質を感じ取っていたのです。しかし本人もその母親もその気にならなかった。ピアノの稽古代の上に作曲のお稽古代が重なるわけだから、母親はそのことでもためらったようです。
最終的には龍一&ママが根負けして、ピアノの稽古は続けつつ、作曲のお稽古を芸大の教授のもとで毎週一回付けてもらうことに。何十人もの生徒が自分の順番を待っている、そういう稽古でした。高校生の子が難しい曲を作ってきてそれを直されたり、ほかの生徒たちも怒鳴られたりひっぱたかれたり譜面に大きくバツ印をつけられたりと、そういうお稽古風景を毎週目のあたりにする、そういうお稽古でした。
余談ですが彼は幼稚園も小学校もピアノのお稽古も作曲指導もみな、バスや電車通いでした。自宅のまわりの子たちとは付き合いはほとんどなかったそうです。
「英語教育の話をしているんじゃなかったの?」 ええわかってます、次回ぶんでその話に進むことになると愚考いたします。