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電子音楽がついに東京オリンピックで奏でられるまで

『電子音楽イン・ジャパン』という、面白い本があります。装丁からして変わっていて、まっ黄色です。ページをめくると白い紙なんですけどね。700ページあります。著者さんはアニメ雑誌「ニュータイプ」の編集さんを(昭和の頃に)なさっていて、後に音楽方面に軸足を移していった方です。

この方、ネット界隈ではあまり好かれていないようですね、ツイッターでほかの文筆者を名指しでこき下ろし続けてアカウントを閉鎖させられてました。私は彼の仕事は高く評価しています。『電子音楽~』をこのたび再読してみて、新たな発見続きでうなりっぱなしです。

「現代音楽」のルーツから語りあかしていく筆がとても平明かつ明晰。ワグナーのトリスタン和音(1859年のオペラ「トリスタンとイゾルデ」のアレ)は無論私も知っていましたがリストも同じ頃に「新和音を新曲に必ずひとつ使うぜ」宣言してたのにはびっくりです。著者さんいわく「より高度な刺激を求めて変化していくロックンロールの歴史と、進化の動機は似ているかもしれない」。

ドビュッシーそしてシェーンベルクの流れも。「架空庭園の書」ですかタイトルがジブリアニメっぽい。1907年に無調音楽の野心作「第一室内交響曲」で聴衆が怒りだして暴動、精神異常を起こしたとして訴えられたシェーンベルク。12音技法が1921年ですかなるほど。

1950年代に大谷ごーとロケンローしたのがやがてノイズやアンビエントを生んでいくのと似ている…この本の史観は面白いわー。

ヒトラーの台頭とともにドイツの前衛作曲家は退廃的と批判され、パリやアメリカに逃亡。12音技法がパリで音列技法に進化。第二次大戦後、ドイツに持ち帰られ、戦時中にドイツで開発されたテープレコーダーの技術とともに「電子音楽」を生んでいったのでした。

パリはパリで「ミュージック・コンクレート」という音楽を生んでいました。19世紀末のイタリアで始まった美術運動「未来派」の旗手ルイジ・ルッソロが、町の騒音を音楽にするべとヘンテコなマシン「騒音調整器」を作って上演。酷評されたものの 1921年にロンドンとパリで実演したらストラヴィンスキーらが聴きに来てたそうです。

テープレコーダー発明より前の時代のことでした。戦後、パリ放送局の実験スタジオが母胎となって当時の前衛ブーレーズやメシアンらがいろいろ面白い試みを続けたそうですが、電気的に変調はしても録音を使わないやり方だったので、やがて行き詰り、そこにドイツの軍事技術・テープレコーダーが入って来ました。

敵国どうしであったフランスとドイツで、それぞれミュージックコンクレートと電子音楽が発展していて、そこに日本の俊英がパリ留学にやってきました。

黛敏郎くんです。

1952年当時、22歳。

翌年に帰国すると、さっそく「ミュージック・コンクレートのためにXYZ」を作曲。作曲というか制作。Xが戦前、Yが戦中、Zが戦後だそうです。

当時の日本はラジオ全盛期で、前衛的なことにやる気満々のエンジニアがラジオ局にはいろいろいらっしゃったこともあって、技術的支援をしてもらったようです。1955年には黛の盟友・諸井誠がドイツを訪れ、北西ドイツ放送局の電子音楽スタジオを視察。シュトックハウゼンとも交流。日本にレポートを送り、これに刺激されてNHKで「電子音楽」の制作を黛が開始。

う~む。

アメリカではジョン・ケージが1938年にプリペアド・ピアノを作り、翌年にはRCA研究所の機材を使って作曲。これがドイツに先駆けての電子音楽第一号だそうです。

黛作品も、パリのミュージックコンクレートとドイツ電子音楽の影響とともに、アメリカのこの流れを受け継いでいるようです。エドガー・ヴァレーズね。その趣向はむしろ映画音楽で花咲きました。溝口の「赤線地帯」(1956年)。

映画の世界ではテープレコーダーがすでに積極的に使われていました。「七人の侍」(1954年)の馬の走る音がテープ録音によるものでしたし、同年の「ゴジラ」のあの鳴き声もテープの再生速度をいじって作ったものでした。

実はもうひとり、映画音楽で電子音楽を積極的に使った方がいます。後に手塚治虫のテレビアニメ「鉄腕アトム」の効果音で知られることになります。効果音は音楽じゃないから著作権は認められないと言われて作業ストライキしたという猛者さんでした。

アトムが1963年放映開始でしたね。翌年10月に、東京五輪。

黛くんのあの変な鐘の音は、天皇・皇后夫妻が会場に現れる際のBGMとして使われました。(当時のテープは紛失。以下のは大阪万博用に作り直されたものです)



追記 行進曲とその作曲者についても触れておきます


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