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「英語できます」は言語ミュージシャン

小学校英語のお話のはずがだんだんと音楽論に突っ走っていくことにお嘆きの貴兄に吉報です、「今回より本線に戻らんとす」、です。

数年前にベストセラーになった英語学習本に、タイトルは忘れましたがたしか「英語の基本は三単語」とかいう本でした。例えば「英語の教師をしております」といいたいときは、

I am an English teacher.

ではなくて、

I teach English.

にしろ、みたいな内容の本でした。

ロックンロールの基本を思い出します。♪ 大谷ゴ~ ♪ あたりを思い浮かべてください。あれの和音はたった三つ、それもひたすら循環する曲です。「字も読めないけれど、ギターの腕ならぴか一さ、ゴーゴー、大谷ゴ―」


実際、スリーコードならぬ三単語で表現できるようならそうしろと心掛ける(そしてちゃんとした指導者がそばにいる)ようなら、上で紹介したような技で、英語による意思疎通はできてしまうのです。

ただ、ひとをノセる音楽をとにかく目指すのならスリーコードでいちおう形にはなるけれど、音楽にもいろいろあるわけです。幅広く音楽になじみ、できれば楽器のひとつぐらいはできて、さらにできれば曲が作れてしまうぐらいのほうがかっこいいし、アマチュアミュージシャンを名乗れるわけです。

私は小学生のときピアノの稽古を(いやいや)受けていました。音楽じたいは大好きで、歌は上手なほうだったし音感もよくて、母方の祖父が揃えていたクラシック禅宗ではなくて全集を順に聴き倒していったおかげでああいう教養主義的な音楽の素養も小学生のうちについていましたが、ピアノの稽古は嫌いでした。学校の音楽の時間は大好きでした。歌えればそれで済んでいたし、学校音楽には「アマチュアでいいのでミュージシャンになれ」と強制してくるような厭らしさとは無縁だったからだと、今になって感じます。

学校英語の無意識下にあるのも「英語という言語のミュージシャンになんて別に目指さなくてもいい、しょせんはペーパーテストでのアウトプット能力を磨くにすぎないのだ」というメッセージだと、今ふっと思いました。

考えてみてくださいモーツァルトは3歳にしてピアノを見よう見まねで弾いていたといいますがそんなのは例外もいいところで、超能力と同じです。どんな音楽家も、意識的な稽古と学習の果てしない繰り返しによって、音楽という言語を使いこなせるようになった方たちです。外国語学習も同じ。万人をアマチュア演奏家でアマチュア作詞家でアマチュア作曲家に教育することは、よほどの強権を振るうか、そういう教育環境を根性で用意してそこに晒し続けるかしないとできないであろうというのと同じように、英語という外国語を読めて聴けて、その上話せて書けるように子どもを育てるのは、すべての子どもをアマチュア演奏家でアマチュア作詞家でアマチュア作曲家に育てるのと同じくらいに困難なのは、理屈ではなく実感でわかることだと思います。

これは英語の授業に限ったことではないのですが、万人に何かを学ばせるとは、選別も行われているということです。私は体育大っ嫌いでしたが劣等感を抱いたことはあまりありません。運動選手を目指したことなんて一度もないし体育会系部活動は行っていなかったのでその方面での競争心や向上心を持ち合わせていなかったので、跳び箱ぴょんぴょんできちゃう同級生を眺めても憧れも嫉妬の念も沸き起こることなく済んだのでした。そういうのは選別ではなく好き嫌いの問題でしかなかったのです。そもそもこの方面での野心や向上心を抱く子たちは部活動ですでにそういうのを追求している子たちでしたし体育なんておまけみたいなものに思っていたと思います。

エーゴはどうでしょう。はっきりいうとどんなに努力してもホンモノになれない宿命にあります。ヴァイオリンの稽古を積めばチャイコフスキーコンクールで優勝する可能性はゼロではないけれど、母語ではない言語の稽古はいくら積んでもまがい物ならぬまがい者にしかなれない宿命にあります。つまりアマチュアミュージシャン、それもギターがいちおう弾けてなんか作れといわれたらそれっぽい曲を作って歌えるくらいのもの、しかし聴けたものではないと自分でもわかってしまうようなものしか作れないし歌えないミュージシャンにしかなれないし、それより上を目指すのなら、それこそ龍一くんが芸大の教授の家に毎週通って作曲ドリルの課題を毎回添削されて時には「なんだこれは」とこき下ろされる以上の痛い目に遭い続けないと上は目指せないようなものを、小学校から稽古していくのって、なんかなーという気がするのです。

「日本の英語教育はペーパーテストに傾きすぎ」と半世紀以上にわたって言われてきたけれど、ペーパーテストに落とし込めているからこそ、まがい者意識が和らげられているともいえるわけですし。

AIの発展も考えるに、SNSで英語コミュができるようならそれでいいという方向になっていくと面白くなるのではないかなと思わなくもないでいます。鼻歌を曲に仕上げてくれるAIがあるのならそれを使って曲を作り歌を作り歌を歌わせてどうしていけないのでしょう?そういう作りのものでは自分のものではない、とことん手を入れたいというひとは音楽理論をしっかり習って添削や指導を受けて、AIをツールとして従えられるよう自分を磨いていけばいいという気もするのです。

考えがなかなかまとまらないでいます。続きは後日。


つづく



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