永遠のくすくす笑いに、君は耐えることができるか?
[これの続きです]
ところでこの令和版に限らず平成版もそうでしたが、実際の教室内つまり教科書の中の青春ストーリーで完結しないで、この教科書を使っている生徒たちが英語で授業中に何か対話する(させられる)ことって実際にはどのくらい行われているのでしょう?
ALT(語学補助教員)さんが横にいて、中学生の皆さんが照れながらなんかやらされている画像は検索するとぎょうさんでてくるし実際そういうのやっているようですが、ああいうのは理科の授業で水の電気分解するとかの類と同じで、半ば儀式という気もします。
小中、高校でもなんかそういうのやらされませんでしたか。ビーカーに沸騰石を入れて、アルコールランプで熱して、なんか垂らすとおお色が変わったぞ、みたいなの。
家庭科ならどういう料理をこれから作るのか事前に提示されて作っていくのに、理科実験だと「どうなるか考えてみましょう」なのは不条理だと思ったことはありませんか。
英語授業でのアクティヴィティにも同種の不条理を感じます。外国語の学習は、喩えはよくないのですが色覚障がい者が訓練をつんで信号の色ぐらいは見分けできるようになりましょう的なところがあります。色覚障がいは医学的にはどうしようもないものであるように、非ネイティヴがネイティヴと同じ言語能力を獲得するのはそもそもありえないことです。
さんすうのけいさんなら、自分の答えが正しいかどうか、やがて自分でチェックできるようになるけれど、語学はそれはどう頑張っても達することのかなわない夢です。
つまり永久にネイティヴたちにくすくす笑いされる宿命なのです。
そこを「ほれ喋れ」だから、誰だって嫌ですよね。
「日本人の英語」は、そういう羞恥心を治めるために生まれてきた、中間言語という気がします。
[続く]