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伊藤詩織は、昭和の「少年ジャンプ」である

伊藤なんとかさんによる、なんたらかんたらというドキュメンタリー映画をめぐって先日急展開があったのは記憶に新しいところです。

記者会見はキャンセル(ドクターストップがかかった)でメッセージが読み上げられました。

映画で不適切な部分があった、無断使用はいけないと私も思います、至急差し替えます、云々。

賢明な判断と表明をされたと思います。

気になるのは、米アカデミー賞のドキュメンタリー部門の候補に入っているのはどうするの?です。

差し替えされたものが正規版となるわけだから、賞レースに出展されたものはそうでないものとなります。

賞の委員会にすれば「日本で起きてることなんざ私らとなんの関係あんねん」なのかな。

もしオスカー授与なんてことになったら、彼女の立場はもっと捻じれたものとなって、もっと苦しむことになるのは目に見えています。

私、彼女の例の事件については、どうにも不快でした。

セカンドレイプの痛みは、自分も経験があります。いえいえファーストを味わったことはなくて、別のことでおっさんトリオからセカンドに限りなく近い目に遭っています。

私事は置いといて、彼女の戦いっぷりは壮絶なものでした。

図式化すると場外乱闘に持ち込んだのです。日本語の言論空間では(支援者はけっこう付いてくれたとはいうものの)不利なので、リングの外に広がる英語の言論空間で、自分を徹底的に売り込んだのです。

英語空間では、英語ができる=人間/できない=エイリアンの権力構図がでんとあります。

さらにそこに、虐げられたアジア人女性、男性優位社会における弱者、現代のマダムバタフライといった、実にステロタイプで分かりやすい図式が重なりました。

かくして彼女は圧倒優位に立ちました。

そうして得た位置エネルギーを活かして、急降下で攻撃。

「だっ、だめだっ!速すぎる‼」

これの波状アタックを止められるものは日本にはいませんでした。



しかも援護射撃が彼女には付いていました。
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検索でてきとーに拾ってきました。英語メディアという機動部隊が、空から撃ちまくったのですよ。

「ジャパンは野蛮な国で、英語が話せる我らが同胞ミズ・イトーを皆で追い詰めている、空から蹴散らせー」



しかし最高裁で最終勝利を収めたことで、高空からの攻撃や援護射撃が封じられました。

チャンピオンになるとは、今度は挑まれる側になることです。

彼女、攻撃は最大の防御というシンプルな技で、これまで戦ってきました。

それゆえ映画作りに着手したのだと思います。

私はチャンピオンではないチャレンジャーだ、と。

どうなったか?

違うものにチャレンジ(=噛みつく)してしまったのです。



考えてみれば彼女の戦い方は、自分ひとりが勝てればそれでいいというものでした。

英語堪能、美女、行動力ほか英語メディアを味方につけるに欠かせないものすべてを具えていました。

そのどれも具えていない人間は、救われる価値なぞない――と公言はしていなくて思ってもいなかったにせよ、そういう裏メッセージを発してしまっていました。

法廷でしか出せないいろいろな映像記録音声記録を、日本社会の暗部告発という大義のもと、世界中に平然とばら撒いたのはまずかったです。

前から彼女が(意図せず)発していた裏メッセージに、肉付けしてしまったのですよ。

「あたしは英語言論空間という、国際社会がバックについてるのよ、逆らうものは空から槍で突き破られるわよ。それでいいの下界の者ども」


昭和の「少年ジャンプ」それも初期の大ヒット作に「俺の空」があります。

通しで読んだことはありません。ただ私は訳あってああいう昭和な少年漫画にはそこそこ詳しい変なひとです。

番長さんがいて、よその番長と順にタイマン張って、従えていって、最後には日本一の番長になっていきます。

クライマックスは富士山がバック。主人公とその数人の仲間たちが、日本中の不良男子1万人に囲い込まれる。

どうする主人公?

彼はこうする。腹心のひとりを使って、日本中の非不良男子10万人を呼び集めて…

主人公 with 数人を囲い込む、1万人の不良男子を、非不良10万人で囲い込んで、屈服させるというオチです。

本当はここで最終回のつもりが、ジャンプ編集部が連載続行を言いわたし、その後同誌の伝統芸となるところの、ライバルのインフレーションが続いていきます。

そして真の最終回では、主人公の番長と、それと対峙するもうひとりのスーパー番長を、番にそもそも興味がない大衆が囲い込んで、抗争は終結するのです。

伊藤さんの一連の闘争というか抗争も、どこかこの構図なんですね。



このトピックについては後日、違う視点から論じてみたいと思う。



…疲れた

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