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つながるカフェin上大岡、とある回の報告的お話

 2022年を迎え早くも1ヶ月が経とうとしている。2019年秋から始めたつながるカフェin上大岡も場所をかえ曜日をかえ、キャッチコピーを変えながらも2022年1月まで30回、続けることができた。ひとえに最初に協力するよと声をあげてくれた女性、スタート時点で場を貸してくれた社長、毎回のように参加してくれる友人、興味を持って参加してくれる人、そんな様々な方々がいてくれることで始められ続けられて今がある。 本当に嬉しい、改めて、ありがとうございます!

 2022年春からはちょっと歩みを緩めながら、それでも止まらずに続けていこうと思う。これまでもそうだったように、これからも私自身の想いを伝えながら、知りたいことを情報交換しながら、ゆるやかに繋がるきっかけになっていけばよいと思っている。

 さて今回報告する話は2021年秋の回で、80代女性に語ってもらった彼女の半生的なお話しだ。彼女は今で言えばバリキャリ(この書き方自体がいかがなものか…ではあるが)的生活お送り、退職し、今は横浜市内でひとり暮らしを続けている。彼女との出会いはもう30年近く前、フォーラムよこはまという場でのキャリアアップセミナー、終了後も連絡を取り合っていたメンバーの一人ではあったが、彼女の半生を聞く機会がなかったのだ。失礼な書き方をすれば、今のうちにちゃんと彼女の話を聴いておきたい、と思ったのだ。結果本当に聴いてよかったと思う。それぞれの時代以上に、というか時代と共に置かれた環境や周囲の人たち、出会う人々で、人生というものは変わっていくし、そしてその選択ひとつひとつがその人の価値観と繋がっていると感じた。

 ここからが彼女の話、報告的な記載となるが、お許しあれ。彼女の日本での生活は、敗戦直後に母親と共に外地から引き上げ父親の実家があった九州で始まった。8歳頃の話は引き揚げ船の話や占領軍との遭遇の状況など、ついこの間体験したかのような鮮明な記憶だった。その後地元の中学校である女性教師と出会い、そこから彼女の人生が大きく変化した。その先生は当時としては珍しく高等女学校卒業の子育て中の女性で、まだ先生のなり手が少ないことで中学校教員として採用されたようだ。その先生への憧れから、彼女は勉強をし地域の進学校に入学した。共学の学校に入学したことでより一層彼女の人生の選択肢が広がっていったのだろうと私には感じられた。彼女は、中学校時代の先生と同じ大学に入りたい!という目標を当時から持っていたとのこと。父親が東京はダメだ!京都なら許そうとなり、無事に女子大に入学した彼女は化学の道を歩き出した。ちなみに、その女性教師はご健在で彼女と手紙でやり取りをしているという。

 私にとっては、私より20年程先輩の女性が大学生として親元を離れ一人暮らしをするということが、物凄く特別なことに思えたのだが、当時の進学校ではさほど珍しいことでもなかったようで、同級生の中には薬学部に入ったり、史学部に入ったりと何人もの女生徒が大学に進学したとのこと。高校の違いも大きいのだと実感した。

 さて、その後大学を卒業した彼女は、1960年関西で化学系の企業に入社し、製品開発職として活躍した。客先同行も学会参加も海外出張もこなしていたが、そういった場ではほぼ紅一点、生産工場に出向いた時には不審者扱いされたこともあったようだ。それでも彼女はおしゃれなファッションに身を包み、気後れすることなく働き続けた、1970年代から1980年代初頭の話だ。アメリカ入国時の話や中央アジアに行った話など、冷戦時代と言われた当時を思い出させられたと同時に、彼女のタフさ、仕事への集中力に圧倒された。この間には男女雇用機会均等法制定に向けたワークグループが関東と関西で立ち上がり、彼女も仕事をしながらこっそりとそのワークグループに参加し、国会議員への男女平等観の調査など続けた。そんな時代、まだ男女別の退職年齢が当たり前で、彼女はその50歳を迎える前に知人からの誘いを受け東京への転職を果たした。そこから彼女の横浜での生活がスタートする、1985年のこと。ちなみに男女雇用機会均等法の制定は1986年だった。

 最初に触れた「フォーラムよこはま」は、横浜市内男女共同参画の2カ所目の拠点として1993年にランドマークタワー13階に開館した(12年後に閉館となったのだが…)。そこでの第一回目のセミナーが、「キャリアアップセミナー」、そして彼女と私は出会った。

 50代になってからも正社員として働いていた彼女も当時の定年55歳を迎えるのだが、その後も70歳を超える2008年まで幾つかの企業や組織で研究補助職として働いた。

 今彼女は最初に書いた通り、高齢者専用マンション的なところでひとり暮らしをしている。社交性ある彼女は近くの同年代の人達と男女の別なくおしゃべりしているらしい。専門が近かったという男性とは今でも技術的な会話になるという、そんな今の生活が出来る限り長く続いていくこと、そのためにちょっと離れてそれでも少し気にしつつ、見守っていくことが私の役目かなと思っている。これもひとつのゆるやかなつながり、彼女の自主性、主体性、自律を尊重しつつ、付き合っていければ良い。



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