日記的なもの 2022.11.27

音を聴くというのは体験であって、音を使った芸術のことを一般的に音楽と呼ぶ。

「音楽」と聞いて、どんなものを連想するか。多くの人はポップミュージック。大衆音楽と呼ばれるもの。

この100年くらいで音楽は大衆化されて、今でもそれは加速している。流通ごと大衆化している。こんな話はこれまでもさんざん書いてきた。

大衆音楽は、直接的な体験とは少しちがう。ルールがある。たとえば歌詞という形で言葉が扱われることがある。言葉は聴く人を選ぶ。

暮らす場所が変われば言葉は変わる。音の響きとしての言葉ではなく、意味として言葉が扱われる場合、わかる人とわからない人に分かれる。この時点で原始的な意味での体験ではなくなる。

ブルースやパンクのようなジャンルが生き残ったり、形を変えながらも根幹に生き続ける理由は、ルールがものすごくシンプルだからだ。みたいなことを誰かが言っていた。ルールを共有するが、誰にでも扱いやすいルールであることがものすごく重要なこと。

一方で体験を重視した音楽は、大衆音楽にはならない。なぜならルールが曖昧だから。不思議なことに、そのほうがアカデミックで複雑な音楽であるという印象が強くなってしまう。

たしかにそういうことも大いにある。だけどそれだけではない。聴いていて心地のいい音。聴いていて気持ち悪い音。科学しきれず、ただただ体験としてそれは、ものすごく原始的で、ほんとうは誰にだって当てはまるし、なんなら作ることができる。そしてそれはものすごく普遍的だったりする。

大衆音楽は時代を映す。今の大衆音楽を200年後に聴いたとき、「あー2000年ごろの感じね」とたぶんなる。作る人は現代の2000年ごろの人に向けて音楽を作る。それが歴史の1ページを構築する。

たとえばアフリカの太古からある打楽器で奏でられる音楽などは、少なくとも大衆音楽よりも息が長い。体験力が強いからだ。たぶんだけど、でもきっとそうだ。

そういうものが作りたい。

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