新世界のあたま #354
ゴッホは生涯1枚しか絵を売ることができなかったという有名な話、諸説あるらしいけど、だいたい孤独な画家として後世に語り継がれている。
今みたいに物流が進歩していない時代、みんなアーティストになれる!みたいなことを誰も思ってなかっただろうけど、日常的に絵を描いていた人はたくさんいたんだと思う。中には趣味でものすごくクオリティの高いを絵を描きながら、ふつうに働いて楽しく暮らしていた人だっていたんじゃないかな。
そんな人たちが自分の絵を売るみたいなことを考えず、絵を描くことそのものをおもしろがって、家族や仲間にプレゼントをしていた、みたいなことを想像してみると、なんだそのすばらしい芸術の営み方はと思ってしまう。空想だけど、いや、でもたぶん今よりもたくさんあったんだと思う、そういうことが。
俺たちは誰に向かって作品を作るのか。特定の誰かなのか、不特定多数誰かたちなのか、あるいは自分自身なのか。少なくとも、かつては不特定多数の誰かたちという選択肢は存在しなかったはずだ。そのポジションからの視点をちょっと借りて世の中を見てると、頭がスッキリする気がする。
世の中が広くなりすぎているのかもしれない。若いころは自分の存在の小ささに打ちひしがれる。じゃあ自分の存在を大きくするしかないと考える。有名になりたいと感じるのは、そういうことなんだろう。
だけど逆はどうだろう。広くなりすぎた世界を、スマホの画面をピンチして地図自体を狭めることで、自分の存在は大きくなる。もしかするとそれだけでいいのかもしれない。
日本人は流行りものに飛びつくのが好きだという。自分を超広角の世界に混ぜることを好むのか、その視点を持つことがうまいのかわからないけど、大きくなりすぎた世界を狭めることは苦手なのかもしれない。
インターネットは世界を拡張してくれた。SNSは線引きの存在しない世界に線を引いたけど、なんとなく線の引き方が他にもあるんじゃないかと思ってしまう。フォーカスする自分の位置が、もう少しちがう形でできれば、芸術と呼ばれるものは豊かになるんじゃないだろうか。なんにも思いついてないけど。
今日のMUSICTRICAL
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